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重大事件なら実名報道は「相場」?  被害者取材で想像すべきこと

天野康代 弁護士

 「報道の自由の罪」というテーマを聞いたとき、私に書けるのかなと思った。

 犯罪被害者支援に携わり、被害者や遺族の代理人として活動しているが、私のこれまでの経験といったところで限界がある。

 そこで、他の弁護士仲間にも協力を仰ぎ、報道の担い手である報道機関から被害者等がどのような「被害」を受けたのか具体的に記載することの了承を得た。もっとも、事実以外の意見にわたる部分は完全な私見であり、被害者支援に携わる他の弁護士や被害者・遺族らの中には違う意見をもつ方もいることを予め断っておきたい。

報道の自由の危機

 昨今、犯罪被害者等に対する取材方法や、被害者の実名報道、さらにはその報道内容に対しても批判されることが増えている。

 批判の声をあげるのは被害者等だけではない。SNSの発達などによって個人の意見表明が容易となり、市民からも報道機関に対する批判の声が目立つようになっている。すなわち、こと被害者報道に関しては、情報の受け手である一般市民=知る権利の主体からも批判されているのであり、報道機関が錦の御旗として掲げる「知る権利に奉仕する」ということの意義は、情報の受け手と送り手との間で乖離しつつある。

 このような報道の自由の基礎が揺らぎかねない危機的状況の中、報道機関は被害者報道とどのように向き合うべきなのか。悲惨な事件が二度と起きないような社会にしたいと、向いている方向は同じはずなのに、取材される側とする側との間にある大きな溝をどのように埋めていくのか、それとも端から溝などないことにしてしまうのか。

 私は、報道機関がこれまでの価値観を見つめ直す時期にきているのではないかと思う。

昼夜を問わずインターホン

 そもそも「報道被害」とは何か。報道機関が「被害」と考えなくても、被害者等が「被害」と感じるものもある。

 被害者等が、どのようなことを負担と感じ、傷つき、「被害」と捉えるのか。私たち弁護士が実際に代理人として被害者等から聴き取った、取材・報道各場面での具体的な「被害」の声を紹介したい。

2019年7月に起きた京都アニメーション放火殺人事件では、犠牲者全員の実名が公表されたのは発生から40日後のこと。遺族に対するメディアスクラム(集団的過熱取材)などを考慮しての措置だった。写真は火災現場近くで取材する報道各社=2019年7月18日、京都市伏見区

取材の場面から

*複数の会社の記者に何度も自宅を訪問され、早朝・夜間を問わずインターホンを鳴らされた。帰宅時には周囲から記者たちが出てきて取り囲まれた。

*身内が事件で亡くなり被害者宅に泊まったが、在宅していることが分かると記者が来るため、日中は窓を開けられず、夜間は極力灯りを点けずにカーテンを閉め切って灯りが漏れないようにした。

*記者が近所の住民を取り囲んで取材をしており、近所の人たちにも迷惑をかけているのではないかと申し訳なく感じる。自宅近くにカメラを持った人がいると、撮影されないか不安になり、家の外に出ることができない。

*ゴミ集積所にゴミを出すと中身を調べられはしないかと心配になり、ゴミ出しができなくなった。

*事件から数年が経っても、インターホンが鳴ると不安になり応答したくない。

*記者が、被害者の写真を示して、自分の子どもで間違いないか確認してきた。なぜ記者が自分の子どもの写真を持っているか分からず、子どもが亡くなった事実を突きつけられているようで非常に辛い思いをした。

報道の場面から

*被害者の実名報道により、インターネット上で被害者に関する様々な書き込みがなされた。その中には事実でないことも含まれ、遺族が読んでいて傷つけられる内容のものもあった。

*被害者の実名報道により、葬儀場の看板から被害者の葬儀であることが分かり、見ず知らずの参列者が来て葬儀が混乱した。

*子どもは事件について配慮することが難しいところ、亡くなった被害者に学齢期のきょうだいがいた事件では、被害者の実名報道がされたことで転居を余儀なくされ、その後は名前を変えて通学しなければならなくなった。

*テレビで自宅周辺の映像が流れ、複数の記者が自宅に来ていたこともあり、誰が自分の住所を知っているのか分からず不安で転居を考えた。

*事件発生直後、遺族が匿名を希望したにもかかわらず実名報道がなされ、その後、強制性交殺人であることが判明した。公判では被害者名が匿名になったが、インターネット上では実名や写真、その他個人情報に属するものなどが公開されたままになっている。

 このように、被害者等は、取材や報道の場面で、様々なことを「被害」と感じている。「被害」とは言わないまでも、自宅周辺に記者が飲んだと思われる飲料の空き容器等が散らかっていたり、応対しないことに怒ったのか壁を蹴ったりする記者に不快感をもったとか、遺族の思いの中ではまだ生きているのに、取材申し入れの際に「亡くなった」「亡くなった」と繰り返し言われるのが辛いという声も聞いたことがある。

適切な被害者報道は重要

 それでは、被害者等が報道被害を受けないよう、被害者に関する報道は不要なのかといえば否である。犯罪被害により被害者等がどのような状況に置かれ、どのようなことを思い、どのようなことに困難を感じているのか等を広く社会に伝えることは、社会制度や構造を変えていくために必要なことであり、被害者支援に携わってきた一弁護士としては、不必要に抑制されるべきではなく、適時適切に行われる被害者報道は重要であると考えている。

 被害者等は、同じような犯罪の被害に遭う人をなくしたい、ほかの誰にも自分たちのような辛い思いをして欲しくないと思っていることが少なくない。自分が被害のことを話すことで同じような被害を防げたり、他の被害者等の助けになったりするのなら事件について話しても良いと考えていることもある。

 しかし、想像してほしい。犯罪被害に遭うやいなや、このようなことを考えられる人がどれだけいるだろうか。

 事件発生直後は、多くの被害者等は物理的にも精神的にも混乱した状況にあり、事件を現実のものと捉えられないこともある。大切な人の死を受け入れられないまま、その後の手続きの中で、故人がこの世に存在しなくなった事実を一つひとつ確認し、消していく作業をしなければならない。そのような状況下で自身の気持ちや考えを語ることは難しい。

 他方で、事件発生直後は「取材は絶対受けたくない」「事件のことなど話したくない」と言っていた被害者等が、時間の経過とともに、事件のことを話してもいいと言うようになるなど、気持ちに変化が現れることもある。

 代理人として被害者等と接していると、被害直後の混乱から徐々に心情が整理されていくことを感じたり、被害者等の言動から様々なことを考えさせられたりする。考え方や受け止め方が人それぞれなのは当たり前なのに、同じ罪名の被害者であっても、家族を失った遺族であっても、その感情は被害者毎に、遺族毎に、本当に多種多様であることを改めて知らされる。「被害者等」と一括りにすることなどできない、実に複雑な心境にあることを思い知らされる。

 また、事件直後のみならず、事件から時間が経過していたとしても、被害者等が、精神的にも経済的にも厳しい状況に置かれたままであることは多い。社会として何をなすべきかを問い、世論を喚起するためには、事件により被害者等がどのような状況に置かれ、どのような心境にあるのかを、報道により社会に広く伝える必要がある。

 しかし、先に述べたような事件直後を中心とする報道被害によって、被害者等が記者に不信感を募らせ、報道機関を避けることも少なくない。代理人として被害者等と話す中で、これは社会に届けたいと思う言葉があっても、本人が拒めばそれは叶わない。報道被害により、被害者等が語ることをためらい、社会に届けるべき被害者等の声が届かなくなってしまうことが危惧される。

初報での実名は必要不可欠?

 取材の申し込みを受けて個々の記者と話していると、被害者等を苦しめようなどという気持ちは毛頭ないことが分かる。そもそも報道機関と被害者等とは、本来的に反目しあう関係にはないのだから当然だ。しかしながら、現実に報道機関が被害者等を苦しめることがあり、そのことが情報の受け手である市民からの反発をも招いていると思われる。

 では、この報道機関と被害者等との齟齬が生じる原因はどこにあるのか。

 私は、事件が被害者等にとって一生のものであるのに対し、報道機関にとっては旬のものという側面があることが根本的な原因ではないかと思う。

 報道はいきものであり、鮮度が大切だとも言われる。報道機関が日々の出来事を記録し、社会への問題提起や検証を行うことの重要性に異論は全くなく、例えば、市民の権利を大きく制限するような法案が審議されている場合のように、時機を逸したら報道の意義が半減してしまうものもあるだろう。

 しかし、被害者報道を同列に考えられるだろうか。いつ、どこで、何が起きたのかを適時に報道するために、当該時点において、被害者の氏名や個人情報に属する事項まで詳細に報道しなければ、何が起きたかを伝えられないだろうか。

 先の法案の例で言えば、審議の過程で、誰がどのような発言をしたかは、市民が政治的判断をするために必要不可欠な情報であるが、誰がどのような被害に遭ったかということは、それが公人である場合は別として、市民にとって必要不可欠な情報とまで言えないのが通常である。

 それにもかかわらずなぜ報道するのか、被害者等が同意しているならともかく、そうでない場合にも報道する意味が私には分からない。以前、ある新聞社の社会部デスクから「重大事件が起こったら、それは『相場』として実名報道せざるを得ない」と言われたことがある。相場? 相場って何?? と混乱し、思わず「『相場』って何ですか?」と聞き返したが、はっきりした答えは得られなかった記憶だ。

丁寧な説明は必須

 近年、警察では、記者発表前に被害者等に実名か匿名かの意向確認をすることが増え、報道機関に対して匿名を希望している旨を伝達していることも多い。また、弁護士が代理人に就任し、報道機関へ受任通知を送る際、匿名の希望があることを付記する場合もある。

 しかし、このような場合でも、初報から実名が報道され、写真が掲載されることが少なくない。被害者等は、ある日突然、犯罪被害に遭ったことを契機として、知らないうちに自分たちに関する情報が漏れ、溢れ、拡散されていくという状況におかれるのである。自分たちの意思に反して実名が報道され、どこから入手したのか分からない写真が報道されることについて、警察からはもちろん、報道機関からも説明されることはない。残るのは、自分たちの気持ちは尊重されないのかという疑問や落胆だけである。

 実名報道は、被害者等の平穏な生活を阻害するだけでなく、時に生命・身体に対する危険をはらむ。自宅近くで見知らぬ人物に待ち伏せされる危険や、自宅に不審物が届いたりすることもある。

 被害者等が匿名を希望したのに、なぜ実名で報道したのか、報道によって少なくない被害を受ける被害者等に説明することは必須であると思う。「相場」という報道機関の価値観を押しつけられても、被害者等は困惑し憤慨するだけではないか。被害者等が実名報道を望まないという意思が明らかなのであれば、その意思に反しても実名を報じる意義があるのだということを被害者等に丁寧に説明する必要があるように思う。

記者と被害者との信頼関係

 また、ある記者に、取材はもう少し時間をおいてからではダメなのかと聞いたとき、時間が経ってしまうと記事になりにくいと言われたことがある。心底申し訳なさそうに、しかし率直に言われて、これは記者個人の問題ではなく、報道機関の体質なのだろうと思った。

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