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老人ホームで食物による窒息事故を防止すべき義務の内容とは?

老人ホームのおやつ提供で過失責任を問われた看護職員(6)

出河 雅彦

 長野県安曇野市にある特別養護老人ホーム「あずみの里」で、利用者におやつのドーナツを提供し、のどに詰まらせて窒息死させたとして、ホームの職員である准看護師が業務上過失致死の罪で起訴された事件を検証する本シリーズの第6回は、公判序盤における検察側と弁護側の攻防を見ていく。准看護師の無罪を主張する弁護団は起訴状の内容について検察側に詳しい釈明を求めていくが、検察側はそれに正面から答えようとしなかった。裁判所は弁護側とは別に、起訴状の記載内容に関して2度にわたり検察側に釈明を命じた。

特別養護老人ホーム「あずみの里」
 2014年12月26日に業務上過失致死罪で起訴された准看護師(以下、Yさんと言う)の起訴状に記載された「公訴事実」の内容はすでに本連載第4回で紹介したが、それを以下に再掲する(「被告人」はYさんを指す。死亡したKさんの実名が記載されている部分は匿名化した。元号表記の後の西暦と下線は筆者による)。

 被告人は、長野県安曇野市豊科高家5285番地11所在の社会福祉法人協立福祉会特別養護老人ホームあずみの里に准看護師として勤務し、同施設の利用者に対する看護及び介護業務に従事していたものであるが、平成25年(2013年)12月12日午後3時20分頃、前記あずみの里1階食堂において、同施設の利用者であるK(当時85歳)が間食を食べるに当たり、同人が食事中に食物を口腔内に詰め込む等の特癖を有し、食物を誤嚥するおそれがあり、かつ、当時、同食堂において利用者に対する食事の介助を行う職員が被告人及び同施設介護職員1名のみで、同介護職員は利用者に提供する飲み物の準備中であったため、前記Kの食事中の動静を注視することは困難であったのであるから、同人が間食のドーナツを口腔内に詰め込んで誤嚥することがないように被告人自ら前記Kの食事中の動静を注視して、食物誤嚥による窒息等の事故を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、他の利用者への食事の介助に気を取られ、前記Kの食事中の動静を注視しないまま同人を放置した過失により、同人に前記ドーナツを誤嚥させて、同人を窒息による心肺停止状態に陥らせ、よって、平成26年(2014年)1月16日午後8時18分頃、同県松本市巾上9番26号社会医療法人中信勤労者医療協会松本協立病院において、前記心肺停止に起因する低酸素脳症により同人を死亡させたものである。

 初公判は起訴の4カ月後の2015年4月27日に長野地裁松本支部(本間敏広裁判長)で開かれた。検察官による起訴状朗読、裁判長による黙秘権などに関する告知の後、主任弁護人の中島嘉尚弁護士が弁護側として検察官に対して釈明を求める事項について準備中であり、起訴内容に対するYさんと弁護人の意見陳述は求釈明に対する検察側の回答を踏まえたうえで行いたいと述べた。

 弁護側が起訴内容について検察側に釈明を求めようとしたのは、業務上過失致死事件としてYさんに刑事責任を負わせるためには、①Yさんに業務上の注意義務を課す根拠となる具体的事実関係が存在した、②Yさんに具体的注意義務があった、③Yさんがその注意義務に反した行為をした、④Yさんの注意義務違反行為でKさんの死亡という結果が生じた、という四つの要件が必要であるにもかかわらず、起訴状記載の公訴事実は極めて抽象的で、不明確、曖昧であるとの判断からだった。

 Yさんの弁護団に加わった小口克巳弁護士は筆者の取材に対し、次のように振り返った。

 起訴状の検討は弁護団が発足した2015年1月から始めましたが、警察があずみの里からあらゆる書類を押収していたので、その返還を求めることも必要でした。返還を求めることと並行して、職員から聞き取りをするなど調査を進めました。介護現場の実情に照らすと起訴状の記載内容からは多くの疑問点が浮かび上がり、検察がいかに現場の実情を理解していないかがわかりました。その一例を挙げれば、介護職員が利用者にマンツーマン(一対一)で食事やおやつの介助をすることを想定していたことです。起訴状の記載内容に対する求釈明は、間違った前提に基づき安易に作成された起訴状の実態を明らかにすることを目指したもので、介護の実態に即した争点を設定するためにどうしても必要でした。

 弁護側は初公判の1カ月後の2015年5月25日、「求釈明申立書」を裁判所に提出した。申立書に記載された「公訴事実に対する求釈明事項」は以下の四つからなり、合わせて48項目に及んだ。

 第1 注意義務の前提となる事実について
 第2 注意義務の具体的内容について
 第3 注意義務違反行為の態様について
 第4 被告人の行為と結果との因果関係について

 「第1」では、Kさんが意識を失った2013年12月12日の食堂の状況やKさんの状況、食事介助を行う職員、Yさんの業務について尋ねた。具体的には、当日の食堂にいた利用者の人数や、食事中の動静を注視すべき対象がKさん以外にいたか否か、「食物を誤嚥するおそれがあり」というのは具体的にどのようなおそれがあったのか、「食事の介助」とは何か、准看護師として行っていた看護業務、介護業務の具体的な内容はどのようなものか、などを明らかにするよう求めた。

 「第2」では、食物誤嚥による窒息等の事故を未然に防止すべき業務上の注意義務と注視義務について尋ねた。具体的には、「未然に防止すべき業務上の注意義務」は、不作為による過失責任として構成しているのか、その場合、Yさんの作為義務は、Kさんの食事中の動静を注視することなのか、Yさんの業務上の注意義務の具体的内容は、Kさんの食事中の動静を注視することのみと理解してよいか、Kさんの動静を注視すべき始期と終期はいつなのか、Kさんがドーナツを食べ始めたときからYさんの注視義務が発生したのか、Kさん以外の利用者の動静は注視しなくてもいいということなのか、などを明らかにするよう求めた。

 「第3」では、Yさんが行った他の利用者の食事介助は本来やるべきでなく、Kさんの食事中の動静を注視すべきだったというのか、Kさんを「放置した」とは具体的にどのような行為をさすのか、などを明らかにするよう求めた。

 「第4」では、ドーナツの誤嚥、窒息、心肺停止状態、心肺停止状態に起因する低酸素脳症について尋ねた。具体的には、Yさんの注視義務違反行為と「誤嚥」ならびに「窒息」、「心肺停止状態」との因果関係はどのようなものか、心肺停止状態と低酸素脳症との因果関係はどのような医学的機序にもとづくものなのか、などを説明するよう求めた。

長野地検松本支部
 これに対し検察側は2015年7月6日、釈明要求項目のほとんどに対して「説明する必要はない」とし、Yさんの業務上の注意義務の具体的内容は、Kさんの食事中の動静を注視することのみと理解してよいか、という質問に対してだけ答えた。その回答は、「同人(K)が間食のドーナツを口腔内に詰め込んで誤嚥することがないように被告人自ら前記Kの食事中の動静を注視して、食物誤嚥による窒息等の事故を未然に防止すべき業務上の注意義務」である、という内容で、起訴状記載の公訴事実をそのまま書き写したものだった。

 それから2カ月後の2015年9月2日、第2回公判が開かれ、Yさんと弁護人の意見陳述、検察側の冒頭陳述が行われた。

 Yさんは、Kさんの異変に気づいてから応援の看護師を呼ぶよう求め、職員が全力で手立てを尽くし、Kさんの救命のために必死になって頑張った、と述べたうえで、「私も含めた、職員に過失があったかのような起訴状には、納得できません」「私は無実です」と主張した。

 弁護側は意見陳述で、48項目に及ぶ弁護側の求釈明に対し検察側が何一つ釈明していないことは不当であると批判した。そのうえで、起訴状の記載内容に関して、①Kさんは食物を誤嚥するおそれがあったとされているが、誤嚥するおそれや誤嚥につながる特癖はなかった、②誤嚥と食べ物を口腔に詰め込むこととはまったく異なる事象であるのに、起訴状の公訴事実では、この違いが無視され、混同されて記載されている、③Yさんに対して、「Kさんの食事中の動静を注視して、食物誤嚥による窒息等の事故を未然に防止すべき業務上の注意義務」を課すことができるか否かの正しい判断のためには、当日の食堂現場における利用者全員及び介護従事者全員の正確な位置、移動、行動、各利用者の身体の状況、介護従事者の職務の内容等を、時系列に沿って、面的にも正しく把握することが必要不可欠である、④検察官がこの時系列的・面的な事実関係をまったく示さず、弁護人の釈明要求にも応えようとしないのは、警察官と検察官が現場における時系列的・面的な具体的状況の把握が正しくできていないこと、把握できないまま本件起訴がなされたことを示すものである――と述べた。

 弁護団はあずみの里の職員の協力を得て、第2回公判に先立つ2015年7月7日にKさんが意識を失った食堂で、利用者の位置関係や職員の動線を時系列で再現する検証を行っていた。第2回公判の意見陳述ではその詳細には触れなかったが、後日行う予定の冒頭陳述で検証結果に基づき、Yさんには公訴事実記載の過失がまったくなかったことを明らかにする、と予告した。そして、次

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