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東京高検が開示した捜査資料で解剖の不実施が判明、「遺族の意向」も勘案

老人ホームのおやつ提供で過失責任を問われた看護職員(16)

出河 雅彦

 長野県安曇野市にある特別養護老人ホーム「あずみの里」で、利用者におやつのドーナツを提供し、のどに詰まらせて窒息死させたとして、ホームの職員である准看護師が業務上過失致死の罪で起訴された事件を検証する本シリーズの第16回では、一審長野地裁松本支部の有罪判決を受けた弁護側の控訴審に向けた取り組みを紹介する。

記者会見で「不当な判決」と訴える弁護団長の木嶋日出夫弁護士=2019年3月25日、長野県松本市、田中奏子撮影
 前回紹介したように、この事件で注意義務を怠ったとして起訴された准看護師(以下、Yさんと言う)に対し、長野地裁松本支部(野澤晃一裁判長)は2019年3月25日、検察側の求刑通り罰金20万円の有罪判決を言い渡した。大きな争点であった利用者の女性(以下、Kさんと言う)の死因(心肺停止の原因)について、長野地裁松本支部は検察側が主張した「窒息」であると認定した上で、検察側が主張したYさんの二つの過失のうち、食事中のKさんの動静を注視する義務を怠った過失(主位的訴因)は認めず、おやつがゼリー系に変更されていたことを確認すべき義務を怠った過失(予備的訴因)によって有罪判決とした。

 無罪を主張していたYさんと弁護団は、一審の有罪判決に対し、判決当日に控訴状を提出した。控訴審に向けた弁護活動に触れる前に、有罪判決に対する介護現場やメディアの受け止めを紹介する。

 本シリーズの第14回で触れたように、弁護側は最終弁論で、Yさんが有罪判決を受けるようなことがあれば介護現場の萎縮と介護の仕事に就く人の激減を招く恐れがあることを指摘し、「この事件には、介護の未来がかかっている。裁判所は、判決でそれに応える義務がある」と、Yさんの無罪を主張した。

 事件が介護現場へ与える悪影響を心配する声は公判の開始当初から介護関係者の間にあり、それがYさんを支援する広範な活動へとつながっていった。第2回公判が開かれた2015年9月2日、「特養あずみの里業務上過失致死事件裁判で無罪を勝ち取る会」が発足し、公判の傍聴や支援集会・学習会の開催、署名活動などを展開した。あずみの里が加盟する長野県民主医療機関連合会(長野県民医連)など都道府県民医連の連合会である全日本民医連によると、最終的には個人約2500人と約440団体が「勝ち取る会」に参加した。

 署名活動は第1回公判から約1年3カ月後の2016年7月を皮切りに、訴因の変更、追加が行われた後の2017年4月以降と、長野地裁松本支部がYさんに有罪判決を言い渡した後の2019年6月以降の3次にわたって行われ、長野地裁松本支部に約45万筆、東京高裁に約28万筆の署名を提出した。

 最初の署名活動で用いられた長野地裁松本支部裁判長宛ての「無罪を求める要請書」には「現在、介護保険制度の度重なる改定によって、介護現場では職員の人材の確保が非常に大変な状況になっています。本件を有罪にすることになれば、介護職員はますます職場を離れ、介護の現場に混乱が持ち込まれ、本来あるべき人間の尊厳を守る介護ができなくなります」と記されていた。同じく2回目の署名活動に用いられた裁判長宛ての要請書は、ドーナツを配膳したこと自体を過失とした予備的訴因の追加について、「あまりにも介護現場の実態を無視した乱暴きわまりないものです。これを犯罪だとは決して認められません」としたうえで、有罪判決が出れば、「日本の介護が崩壊してしまうと危惧します」と訴えるものだった。

 東京高裁に宛てた「控訴審で無罪を求める要請書」には次のように書かれていた。

 全国各地からも「この判決はひどい」「これでは恐ろしく介護が続けられない」「人員不足に拍車がかかる」「人生の最後まで生きがいをもって好きなものを食べてもらいたいが制限せざるをえなくなる」という声が上がっています。判決を受けておやつの提供を中止した施設も実際に出てきています。施設で何か起きた時に、たまたまおやつを配り、隣にいた職員が刑事罰を受けてしまっていいのでしょうか。

 この裁判は、わが国の介護の未来がかかった重大な裁判になっています。第1審判決が確定するようなことがあれば、ますます介護の現場は委縮し、尊厳ある介護は困難になるでしょう。

 貴裁判所におかれましては、証拠と事実を慎重に検討された上で、無罪判決を出されるよう要請します。

 メディアも一審判決に疑問を投げかけた。

 あずみの里がある長野県の地元紙である信濃毎日新聞は判決翌日の2019年3月26日朝刊に「特養の死亡事故 職員だけの責任なのか」と題する社説を掲載した。

 その社説は「どの施設でも起こり得る事故が職員個々の刑事罰につながれば、関係者は委縮し、ただでさえ足りない介護の担い手の確保が一層困難になりかねない」と指摘した。また、厚生労働省が公表した、特別養護老人ホームと老人保健施設の2017年度の死亡事故に関する調査結果を紹介しながら、「職員に責任がないとは言えないものの、直ちに刑事罰に問うことには疑問が募る」とし、自治体で第三者の調査機関を設け、警察や検察だけに委ねない検証の仕組みをつくることを提案した。

 朝日新聞も社会面で判決を大きく取り上げ、有罪判決によって「介護現場に人は集まらなくなる」と心配する介護事業者の声を伝えた。

特別養護老人ホーム「あずみの里」
 ここからは控訴審に向けての弁護団の活動、特にKさんの死因に関してどのような立証活動を展開していったのかを見ていくことにする。

 2019年3月25日に長野地裁松本支部で有罪判決を言い渡されたYさんは即日控訴した。東京高裁で行われる控訴審に向けて、東京、埼玉で活動する3人の弁護士が新たに弁護団に加わり、総勢15人となった。

 弁護団ではKさんの死因に関する主張を補強するため、一審判決から4カ月後の2019年7月25日、Kさんが2013年10月にあずみの里に入所するまでの間に受診したことのある豊科病院(長野県安曇野市)、安曇野赤十字病院(同)、相澤病院(長野県松本市)のカルテやCT画像などを開示するよう東京高検に証拠開示請求し、同年8月2日に任意開示を受けた。

 2014年1月16日に松本協立病院で死亡したKさんの死亡直後の頭部CT画像からは、脳底動脈先端部に発症から時間が経過した梗塞(※筆者注=血液が流れにくくなって細胞組織が壊死した状態)があることが読み取れた。このような脳底動脈先端部に梗塞がある場合、発症後に目の動きの異常などの神経症状(典型的には「パリノー症候群」)が見られるのが通常である、とされる。

 開示された複数の病院の診療記録のうち豊科病院のカルテには、Kさんがあずみの里に入所する2013年10月23日の前日の10月22日に健康診断を受けたことが記されていた。弁護団は、Kさんの健康診断を担当した豊科病院の医師に、健診時のKさんに目の動きの異常を示す神経症状パリノー症候群が見られなかったかどうか照会し、パリノー症候群は見られなかった、との回答を得た。

 入所直前の段階では、脳底動脈先端部に脳梗塞が起こった場合の典型的な症状がみられなかったという回答は、入所から50日後の2013年12月12日に脳梗塞を発症したとの弁護側の主張を補強するものだった。

 弁護団はこうした作業と並行して、Kさんの心肺停止の原因などに関する意見書の作成を複数の医師に依頼した。

 その一人は、一般財団法人Ai情報センター代表理事の山本正二医師である。Aiは「Autopsy imaging」(=死亡時画像診断)の頭文字の略で、死因究明のためにCTやMRIなどの画像診断機器を使って遺体を調べることだ。2009年に設立されたAi情報センターは、画像診断の専門家が各施設で撮影された死亡時画像について第三者の立場で診断アドバイスを行っている。

 Kさんの死後に撮影された頭部CT画像から何が読み取れるかを尋ねた弁護側に対し、山本医師を含む4人の医師が連名で意見書を作成した。その内容は、①両側視床~背側中脳という特徴的な領域の梗塞から、脳底動脈先端症候群であったと考える、②梗塞が2013年12月12日よりも前に起きたものであれば、生前に何らかの神経症状が出現していたはずである、③脳血栓塞栓の発症時、偶然にドーナツを食べていたため、突然に誤嚥が生じたと認識されてしまったようだが、脳血栓塞栓症が先行したと考える、などというものだった。

 二人目は、当時、日本医科大学大学院医学研究科救急医学分野教授で、一般社団法人日本救急医学会の代表理事を務めたことがある横田裕行医師である。

 横田医師は意見書で、Kさんの死後に撮影された頭部CT画像について、「典型的な脳底動脈先端部閉塞の画像所見である」と述べた。脳梗塞の発症時期については、Kさんが2013年12月12日のおやつの最中にむせやせきもなく、すぐそばにいたYさんも気づかないうちに静かに意識消失していることから、「この時点で、脳底動脈先端部の閉塞による脳梗塞を発症したことが強く疑われる」とした。

 三人目は、北海道大学大学院医学研究科脳神経外科学分野教授などを歴任し、当時は同大学院の特任教授であった寶金清博医師である。

 前回紹介したように、一審では、寶金医師らが1987年の日本脳神経外科学会機関誌に発表した「脳梗塞急性期における動脈再開通の検討」と題する論文の解釈をめぐり、検察側、弁護側双方の意見が対立した。この論文には、①1983年8月から1985年12月までの2年4カ月間に急性期虚血性脳血管障害で入院し、脳血管撮影が行われた患者186例のうち、初回の脳血管撮影で85例に動脈閉塞が認められた、②そのうち41例に対して経時的な脳血管撮影を行った結果、18例(44%)で閉塞した動脈の再開通が見られた、と記述されていた。

 Kさんは脳底動脈が血栓によって一時的に塞がれ、呼吸中枢、意識中枢の一時的な機能障害が生じた後、血栓が崩れて流れ血管が再開通したと主張する弁護側は、脳梗塞の再開通症例に関する寶金医師らの論文を根拠の一つとして挙げた。それに対し検察側は、この論文は「脳梗塞が生じてから1週間以内4日前後に生じたもの」を対象例として検討したものであり、弁護側が想定しているような発症当日に再開通を生じた症例を対象としたものではないと主張した。

 一審長野地裁松本支部は、論文に「再開通が平均4.1病日に確認された」との記述があることを捉え、「論文は平均的な再開通の時期を約4日とするものであり、文献記載の症例における脳梗塞による症状の程度についても明らかではなく、意識消失に至るほど

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