メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

(1) サービス残業の是正、若い社員らの相談受けて社長に直訴

奥山 俊宏

 ■解雇

 「私物の引き取りは別として本書面到達日以降、就業のための出社には及びません」

 土曜日、自宅に届いた「解雇予告通知書」で大石は自分の「解雇」を知った。発信人は会社代理人の弁護士の名義となっている。

 「ご存知のとおり、当社の主力であるマンション・ビル管理部門、マンション建設・販売部門は、いずれも参入企業の増加による供給過多と需要の減退によって激烈な競争を強いられております。…(略)…そこで、当社は新陳代謝をはかり筋肉質な骨太な企業への変革を決意しました。ついては誠にお気の毒ですが貴殿のような高齢者を解雇することといたしました。これまでのご努力に感謝申し上げますとともに、ご理解を賜りますようお願い申し上げます」

 2002年1月12日、66歳の大石はその文面に驚くと同時に怒りを感じていた。

 「こういう事情だから辞めてくれ」と社長に言い渡されるのならば、前年からの経緯があるから、まだ理解できる。しかし、いきなり弁護士の通知書である。しかも、解雇の理由になるような理由が書いていない。大石はそう思った。

 ■社長と同級

 長年にわたる市役所勤めを辞めて大石が56歳でその会社に入ったのは、社長と法政大学工学部で同級だったという縁によるものだった。

 大石によれば、92年7月に子会社に入社したあと、もともとは千葉・房総半島に新しくできる老人ホームの支配人になる予定だった。しかし、バブル崩壊の影響でその建設が凍結されてしまったため、実際には主として、親会社に出向し、「建設部」という部署で、営業部の若い社員らとともに、マンション建設用地の購入に携わることになった。

大石さん大石さんの近影
 大石はまわりの社員よりも年齢が高く、また、社長との個人的な関係もあって、年少の上司にとっては扱いづらい社員だったようだ。

 係長だった人物はのちに裁判所に提出した陳述書(2002年5月9日付)の中で大石について「何かと社長の威を借りた言動が多い」「60歳を過ぎても辞めず、何の成果もあげられないのに、社員として居続けられたのは、結局のところ社長の温情」と指摘し、会社の専務だった人物も同様の陳述書で「社長の恩に報いるどころか増長して、内心では専務である私と同格であるかのような気持ちになってしまっていたようだ」と大石を批判している。

 ■2つの問題

 大石が仕事としたのはいわば「土地の仕入れ」だった。地主と交渉して、土地の売買契約を結ぶ。ゆくゆくはマンションが建てられ、分譲販売される。

 その「仕入れ」にしばしば問題が発生した、と大石は言う。

 のちに法廷に大石が提出した陳述書によれば、土地の売買契約の直前の土壇場になって、地主との間で内々に決まっていた土地購入価格について、上司にあたる専務からしばしば見直しを指示された、という。その結果、地主が売却をあきらめ、それまでの社員の努力が無に帰してしまうことがあったという。

 当時、バブル崩壊のあおりで土地の価格もマンションの価格も右肩下がりの下落が続いていた。専務からすれば「採算にのるものであれば仕入れ、採算に合わないものは仕入れないのは当然のこと」だったのかもしれないが、専務と大石らの間には行き違いがあった。

 「私たちが納得できる理由ならいいのですが、専務から突然、具体的な理由も明示されずに、方針変更が指示され、しかもそのような事態がたびたび続き、建設部・営業部の土地購入担当部員の間では、相当の不満がたまっていた」(大石の2002年5月30日付の陳述書)という。

 時間外賃金の不払い(サービス残業)についても、大石は若い社員から不満を聞かされていた。朝早くから終電近くまで働かされ、それでも、超勤手当が出なかった。

 2001年4月のある日、呼び出されて四谷の喫茶店に出向くと、そこには若手を中心に10人以上の社員がいたという。「どうしたらいいでしょうか」と相談され、大石は「おれが社長に

・・・ログインして読む
(残り:約413文字/本文:約2051文字)