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2-2) 田中内閣発足5日、丸紅社長と米大使が会談

奥山 俊宏

 米国の大手航空機メーカーから総理大臣・田中角栄ら日本の政治家に裏金が渡ったとされるロッキード事件は1976年に明るみに出た。この連載『秘密解除・ロッキード事件』では新たな資料をもとに新たな視点からこの事件を見直していく。第2部では、日米両政府の政治家がロッキードに便宜を図るために「天の声」を出し、関係者に「圧力」をかけようとした可能性を示唆する新たな資料に焦点をあてる。その第2回。

  ▽筆者:奥山俊宏

  ▽敬称は略しました。

  ▽この連載の   目次とリンク

  ▽この記事は岩波書店の月刊誌『世界』2011年2月号に掲載された原稿に加筆したものです。

 

 戦後の日米関係を彩った安全保障の問題が沖縄返還によって後景に退き、1972年、日米摩擦の主役に躍り出たのは貿易不均衡だった。日米関係は「戦後初めて」と言われるほどの「緊張」にさらされた(注1)

 米政府の資料によれば、日本から米国への輸出は1964年まで戦後一貫して、米国から日本への輸出より少なく、日本は対米貿易赤字を記録し続けていたが、65年にこれが初めて逆転(注2)。以後、その差はどんどん大きくなった(注3)。「奇跡」と呼ばれた日本の経済成長と、前例のない「集中豪雨」的な日本の輸出拡大によって、1970年に12億ドルだった日本の対米貿易黒字は、71年に32億ドルに増加し、72年には38億ドルに達すると見込まれた(注4)。米国の貿易赤字の2分の1超を日本向けが占める異例の事態になる見通しだった。固定相場だった円ドル為替レートは71年12月に1ドル360円から308円に切り上げられたが、それの効果が十分に表れて日本の輸出が抑えられるのは73年以降のこととみられていた。

 ほんの10年ほど前までは貧乏国の国民だった日本人にとって、心情として環境の激変についていくのは簡単ではなく、「追いつけ追い越せ」の気分から抜け出すことはなかなかできなかった(注5)。米政府ホワイトハウスの分析によれば、日本の経済成長は「過去25年間の米国の対日政策の成功を表すもの」ではあるものの、一方で、「日本の対米黒字の増大は、日米関係を緊張させ、究極的には国際的な貿易・金融システムを崩壊させる可能性がある」と危険視された(注6)

丸紅社長の檜山との面談に関する駐日大使の報告

 田中内閣が発足した直後の72年7月11日、米国の駐日大使ロバート・インガソルは丸紅の社長・檜山広と同社で会い、貿易不均衡について意見を交換した。国務省に対する駐日大使館の報告によれば(注7)、檜山はその際、「日本政府は、貿易黒字を段階的に削減していく目標値を年ごとに定め、国内産業界や商社にそれを守らせるべきだ」という意見を開陳し、「米政府は日本政府に対し、目標値が達成されない場合はさらに強力な是正策を約束するよう求めるべきだ」と述べた。「そのような約束が公表されれば、米国民、特に議会に日本の真剣さが伝わるだろう」という檜山の意見は米国側にとっては「我が意を得たり」というものだったのだろう。インガソルは「現状を変えるには、確かに劇的な何かが必要だ」と檜山の意見に同意した。

 駐日大使館は報告の中で、檜山について「日本3位の大手商社の社長として相当な影響力を持つ男」と紹介し、「インガソル大使と会話した時点では檜山はそのアイデアについて新しい政権の指導者らと議論していなかったが、彼は近くそうしたいと述べた」と

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