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2011年8月のフクシマ・二本松

2011年8月のフクシマ・二本松

 

あらお しゅんすけ

 

2011年8月。いつもと変らない暑い夏が巡ってきました。

じりじりと照りつける太陽。蝉も一生懸命鳴いています。ノウゼンカツラも紅く燃えています。

いつもと変らない夏のようです。安達太良山もどっしりと変りなく、その上にある智恵子の本当の空もいつもの夏姿です。ただ、湧き上がる入道雲はきのこ雲を連想させます。

そして本当は、あの日を境にしてがらっと変ってしまったのです。

もう取り返しは出来ません。

我々の愛していたふるさとが無くなったのです。

我々の何気ないささやかな日常の幸せはどこかに行ってしまったのです。

 

2011年3月11日から数日間、浜通りで発生したプルーム・原子雲は気ままに流れました。

その大きな流れのひとつは北西に向って福島に達しそれから二本松、郡山に流れたのだそうです。

そしてたまたま気まぐれに降った雪や雨に混じって放射性セシウムはまんべんなく降り注いだのです。

この日、そしてそのあと、福島第一原子力発電所でどんなことが起こったのか、福島の人たちはどうすれば良いのか、何故積極的に教えてくれなかったのかと人々は言っています。

我々は国から見捨てられたのだと人々は言っています。

 

二本松市には今、浪江町の臨時役場が置かれています。

あの大津波や原発事故に追われた町からきた多くの人たちが、市内に滞在しているのです。

彼等が住み慣れたふるさとに何時戻れるのか、今は誰もが言えません。

落ち着かないことでしょう。切ないことでしょう。

 

それでも今、フクシマには何事もなかったように日が昇ります。日が沈みます。

空は碧く、山は緑に輝き、花は咲き、鳥は鳴き飛んでいます。

気にしなければ吹く風はあくまで心地よいのです。

でも、我々は知っています。

それが1時間当たり1.08マイクロシーベルトのセシウム入りの風だということを。

でも我々は、それをあえて無視するように日常生活を続けているのです。

 

そうです。一見何事もなかったかのように、昔と変わらない生活が続いているのです。

しかし、自家菜園でうまそうにできた野菜を口にするとき

自家菜園の前に立つ荒尾さん。奥に見える阿武隈山系の向こうに福島第一原発がある

菜園から東の阿武隈山地の向こうにある福島第一原子力発電所の方向を臨むとき

未だに悪魔が口をあけて人間の浅知恵をあざ笑っているのを感じるのです。

悪魔の吐く毒気が我々の身体をじわりじわりと蝕んでいく恐れを感じるのです。

あれ以来、フクシマの人々の心の底にはいつも重い鉛のような塊が沈んでいるのです。

その哀しみの塊はどうしたら取り去ることができるのでしょう。

 

一見何事もなかったかのようなのですが、仔細に見るとやはり変ったのです。

あっちにもこっちにも降り積もったセシウムは何年も何十年も居座るのです。

雨の集まるところや、木の茂みはホットスポット、そう、放射性セシウムが集まっている所なのです。

でも、匂いもないし色も着いていないし音がするわけでもないし、痛くも痒くもないのです。

年間積算7.8ミリシーベルトのセシウムがどんな悪さをするのかは誰も知りません。

でも幼い子供たちの身体をじわじわと痛めつけることはチェルノブイリが教えてくれました。

 

だから若いお父さんお母さん方は恐れています。

学校のグラウンドの表土は剥いでもらったし、通学路も除染しました。子供は外では遊ばせません。

それでも心配です。お父さんお母さんたちはフクシマから1万5千人の子供たちを転校させました。

何よりも子供の将来を思って、万難を排して放射能のない知らない街へ脱出させたのです。

せめてこの8月だけでも、と避難させたお父さんお母さんもいるのです。

残っている子供たちに何事も起こらないことをただ、ただ祈るばかりです。

 

2011年3月11日のことは夢であってほしいと願うのですがそれは叶わぬ願いなのです。

我々の平和なふるさとはやっぱり無くなってしまったのです。

祖先から譲り受けたふるさと、子孫から預かっていたふるさと

ふるさとが、大地がこんなにも愛おしく大切なものだったのか

そういうことを忘れるほど安心しきって、我々の命はそのふるさとの大地に抱かれていたのです。

我々は今しみじみとそれを感じているのです。哀しい気持ちで。

 

でも、我々は、福島はあきらめていません。

我々を育んできてくれたふるさとをあきらめません。

浜通りにも阿武隈山地にも踏みとどまって黙々と暮らしや経営を立て直そうとする仲間がいます。

一度はあれほど打ちのめされ、うちひしがれたフクシマですが、元気を取り戻しているのです。

福島の底力は静かに動き始めているのです。

我々のふるさとを取り戻そうとする動きはきっとあの津波より大きなうねりになることでしょう。

 

田んぼには今年も見事な緑の絨毯がひろがっています。稲穂がはらみかけています。

苦境にあっても、いつものように大切に育ててきた稲です。希望です。

そんな農家の人たちも正直に言えば怖いと言っています。

あの牛肉のようにセシウムが米に入り込んでいないか気になっているのです。

自らが食べる米です。遠い昔から日本人の命を育んできた米なのですから。

 

そういう懸念を抱えながらも大半の大人は言っています。悟りを開いた修行者のように。

我々はこの先どんなことが起きようと耐える覚悟だ。たとえモルモットにされたとしても、それが核と共存せざるを得ないこの先の世界に役立つなら。ただ子供たちだけは守りたいのです、と。

そうです、子供たちは大人の希望です。みんなの宝です。明るい未来なのです。

若いお父さんお母さんとともにみなさんに伝えたいことがあります。

「 3月以来子供たちに沢山の温かい心と支援をありがとう。

これからもどうぞ末永く見守ってください 」

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