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走ることについて語るときに私の語ること

走ることについて語るときに私の語ること

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
弁護士 中町 昭人

中町 昭人(なかまち・あきひと)
 1991年、京都大学法学部卒業。司法修習(45期)を経て、93年、弁護士登録、森綜合法律事務所入所。97年、米国New York University School of Law (LL.M.)。98年、カリフォルニア州とニューヨーク州で弁護士登録。2005年1月、米国Kirkland & Ellis LLPパートナー就任。通算13年間を米国で過ごした後の2009年、アンダーソン・毛利・友常法律事務所入所、パートナー就任。

 この1月半ばの日曜日、東京の荒川沿いで行われたフルマラソンのレース(といっても、参加者が東京マラソンの10分の1以下の規模のローカル大会だが、その手作り的な運営の雰囲気を私は気に入っている)で、私は、自己ベストを11分以上縮め、3時間12分台で完走した。

 いつもながら、最後の10キロは相当きつかったが、天候にも恵まれて、スタートからゴールまでとても気持ちよく走ることができた。生まれて初めてフルマラソンを走ってから丁度2年。アマチュア・ランナーなら誰でも夢見るサブ・スリー(フルマラソンを3時間以内で完走すること)まで、ようやくあと13分弱のところまで来たが、ここから10分以上タイムを上げることがどれだけ大変なことかは自分自身が一番よく知っている。右足の裏の筋も半年前から痛めており、40過ぎの自分の身体の限界をひしひしと感じながら、恐る恐るサブ・スリーへの階段を一歩一歩登っていくことになる。高い山にアタックする登山家の気持ちにやや似ているかもしれない。(自分はそんな本格的な登山をしたことはないので、ただの想像に過ぎないが。)

 私にマラソンを走るきっかけをくれたのは、あの作家の村上春樹さんである。とはいっても、村上さんが私に対して直接「走るっていいよ!」なんてことを言ってくれたわけでは勿論ない。多分、村上さんはそんなことは滅多に他人に言わないだろう。(確信はないが、そんな気がする。)

 村上さんから走るきっかけを(無断でちゃっかりと)いただいたのは、彼が2009年2月にエルサレムで行ったスピーチに触れた時だった。ご存知の方も多いと思うので、そのスピーチの内容をここで詳しく説明はしないが(村上さんのこのスピーチの全文は47NEWSのウェブサイトに掲載されています)、村上さんは、それがイスラエルから自分が大変栄誉ある賞を贈られた受賞式での(通常なら当たり障りのない謝辞を述べるだけのはずの)記念スピーチであったにもかかわらず、当時非常に激しくなっていたイスラエルとパレスチナ間の戦闘によって、主にパレスチナ側の沢山の民間人(特に子供や老人ら)が巻き添えになり犠牲になっていた現地の惨状に対して、「卵と壁」という彼独特のレトリックを用いながら、全人道的な見地から、イスラエルの全国民に対して彼の深い憂慮と強い異議・苦言を述べたのだ。私は、当時、13年ぶりにアメリカから日本に帰国する数カ月前だったが、イスラエルのような特殊な国から招待を受けた席で、しかもそのような極度に政治的にデリケートな状況の中にあっても、揺るぎない自らの信念に従って堂々と(当然ながら英語で)、あのような人種を超えて人々の心を揺り動かす強いインパクトのある意見を述べられる日本人が一体何人いるのか?~悲しいことに、実際にはほとんどいないのだ!、ということを長年の海外生活を通じて身に染みて分かっていたため、そのぶん余計に村上さんのスピーチに大きな衝撃と感動を受けたのである。

 村上さんの「卵と壁」のスピーチに触れたことと、私がマラソンを始めたことに一体何の関係があるのか?と思われたかもしれないが、実は村上さんは約20年前からほぼ毎年フルマラソンを走っているシリアスなランナーなのである。そのことは、以前に彼の「走ることについて語るときに僕の語ること」というランニングに関するエッセイ集を成田空港の書店で見つけて斜めに読んでいたので知っていた。それでその時、「自分は小説はとても書けないが、走ることくらいは村上さんの真似ができるだろう。ならば、俺も村上さんを見習って走ろう!」と瞬間的に思いついたのが、私がフルマラソンを目指すきっかけであった。

完走後

 その数ヵ月後の2009年6月末に13年振りにカリフォルニアのシリコンバレーから日本に帰国して、生活や仕事の立ち上げなどで忙殺されつつ約半年が過ぎたが、その後トレーニングを本格的に再開し、2010年1月に同じ荒川沿いの大会で初めてフルマラソンを走って以来、ほぼ毎月のペースでフルやハーフのレースに出てきた。昨年6月には、やはり村上さんも以前に一度走った北海道のサロマ湖を一周する100キロのウルトラマラソンにも挑戦し、無事に約10時間半で完走することができた。レース後半は意識が朦朧としていたものの、北海道のオホーツクの大自然を自分の足で一歩一歩駆け抜けていく際の美しい光景は今でも忘れることができない。自分自身という存在が、地球と一体化して溶け込んでいくような感覚がそこにはあった。感動的なスピーチだけでなく、このような素晴らしい経験を得られるきっかけを与えてもらって、村上さんには今でも日々心から感謝している。

 日本がマラソン・ブームだと言われ始めてかなり久しいと思うが、2007年に東京マラソンが始まって以来の市民ランナーの裾野の急速な広がりには目を見張るものがある。その市民ランナーの一人として、自分なりに日本のマラソン・ブームの原因を分析してみると、根本的には、日本における経済的・社会的な閉塞感の高まりと反比例する形で、マラソンの世界に足を踏み入れる人の数が増えているような気がしてならない。「失われた20年」と言われ、一向にデフレ基調から抜け出すことができない経済と、信じがたいペースで年々詰み上がっていく国の借金。それに追い討ちをかけるように、次々と襲ってくるリーマンショック、サブプライムローン危機、東日本大震災、さらにユーロ危機。そんなマクロの環境の中では、仕事の上で各個人の誠実な努力が、短期的にも目に見えるよい結果になかなか表れにくくなってきていることは否定できないだろう。自分がいくら頑張っても、それによって周りの状況がよくなる実感がほとんど得られない、という状況が長く続けば、その中で頑張り続けるためのモチベーションを維持していくのが誰にとっても非常に難しいのは当然である。

 そんなついつい「やる気」を失ってしまいがちな今の日本の中で、「自分のやった努力が正当に報われる」という貴重な実感をほぼ確実に得られる方法が、実はランニングでありマラソンなのだ。「トレーニングは決して裏切らない」というのが、プロもアマチュアも国も問わない、時代を超えたマラソン哲学(というものが、もしあるならば)の基本である。練習をしすぎて怪我をしてしまわないように注意していれば、地道に積んだトレーニングの分だけ、レースのタイムは例え少しずつでも着実に向上していくはずだ。世の中の様々な喧騒や雑音から切り離されて、早朝の日の出前の身を切る寒さの中で、「何で自分は毎朝こうやって走っているんだろうか?」などと自問自答しながら黙々と走るのは、禅の瞑想(meditation)にも似ているかもしれない。そうやって走りながら、人の世がどうであれ毎朝変わらずに昇ってくる朝日の美しさにしみじみと打たれつつ、小さい一歩一歩を刻む自分の存在がいかにちっぽけなものであるかを再確認して素直に受け入れることで、自分をリセットして今日一日をまた頑張るための活力を得ているランナーが、私も含めて日本全国に無数にいるはずであり、その数は今後もどんどん増え続けるに違いない。

 このようなマラソン・ブームを受けて、全国各地で地元おこしの一環としてどんどん新しいマラソン大会が立ち上がっているが、その中には準備や運営ノウハウが明らかに不足しているものも一部にあるようである。その典型は昨年11月に静岡県富士市等で行われた「ふじのくに新東名マラソン」で、現地が11月の観測史上最高気温を記録する中、給水や紙コップが大幅に不足したため脱水症状を訴えて棄権した人が500人近くに上り、9人は救急搬送され、県知事が陳謝する事態となった。この件を巡って裁判沙汰になったとは聞いていないが、そうなっても全くおかしくない程度の杜撰な大会運営だったと思われる。いかに普段十分なトレーニングを積んでいても、高い気温の中で水分補給ができなくては当然ながら生命に関わる。今後新規に大会を運営する方々には、このような不幸な事故(や裁判)を招かないためにも、一層の注意を払っていただけるようお願いしたいものである。

 中町 昭人(なかまち・あきひと)
 1991年3月、京都大学法学部卒業。司法修習(45期)を経て、1993年4月、弁護士登録、森綜合法律事務所(現・森・濱田松本法律事務所)入所。
 1997年5月、米国New York University School of Law (LL.M.)。1998年、カリフォルニア州とニューヨーク州で弁護士登録。1997年9月から1998年8月まで、米国Morrison & Foerster LLP(サンフランシスコ、ワシントンD.C.)勤務(客員弁護士)。1998年10月から1999年9月まで米国Kirkland & Ellis LLP(シカゴ)勤務(客員弁護士)。1999年10月から2003年9月まで米国Wilson Sonsini Goodrich & Rosati LLP(カリフォルニア州パロアルト)勤務(アソシエイト)。2003年10月から2009年6月まで米国Kirkland & Ellis LLP(サンフランシスコ・パロアルト・ロサンゼルス)勤務(アソシエイト/パートナー)。2005年1月、Kirkland & Ellis LLPパートナー就任。
 2009年7月、アンダーソン・毛利・友常法律事務所入所、パートナー就任。
 論文に「クロスボーダーの知財関連契約を成功に導くための処方箋」(ザ・ローヤーズ 2010年11月号)、「海外の先進的企業から学ぶNDAの戦略的活用」(ビジネスロー・ジャーナル 2010年6月号)、「警告書の取り扱いにおける実務的チェックポイント-特許侵害に関する警告書を作成・送付する場合と受領した場合のそれぞれの注意点」(ザ・ローヤーズ2007年12月号)など。