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連載小説2回表:不思議と気になる社長秘書との出会いに

2回表 球団事務所

滝沢 隆一郎

   1

 太陽が西に傾いているというのに、新神戸駅のホームに立つと、熱風が体に貼りついてきた。中島光男は、ふーっと、息を一つ大きく吐き出した。

 これから向かう先である神戸ベイライツの球団本社の事務所は、JR神戸駅西側の旧海港地区にある。開閉ドーム式のベイライツ球場、隣に立つ地上34階建てのベイライツ・ホテルと同じブロック内にあり、一大観光・商業タウンを形成している。もともと造船工場と資材倉庫だった敷地を丸ごと買い取ったものだ。

 コンビニ・フランチャイズチェーン事業を営む株式会社スポライは、阪神淡路大震災後の平成8年(1996年)、神戸を本拠地とするセ・リーグ球団、神戸ベイシティ・プラネッツを買収し、神戸ベイライツと球団名を変更して保有している。

 市営地下鉄で三宮駅へ出てJRに乗り換えても行けるが、中島は駅付けのタクシーに乗り込んだ。暑さにまいって冷房を求めたわけではない。

 「運転手さん、ベイライツの球場へ」

 「あれ、今日、試合ありましたっけ」

 「月曜日だから、どうかな」

 「お客さん、東京からですか」

 「ええ、まあ。地震のときは神戸に住んでたんですけど、今は道路もすっかり立派になりましたね」

 「一面焼け野原になってしもうたのに、よく立ち直りましたわ」

 初老の運転手の口が滑らかになったところで、中島は慎重に話題を振ってみることにした。念のため、背広の社章を裏返しにしていることを確認した上でのことだ。

 「ベイライツ、今年は、ずいぶん調子いいみたいですね」

 「そうやね」

 「何が変わったんですかね」

 「なんでやろ。あんまんが、調子ええしね」

 「あんまん、安田選手と言えば、インターネットの記事に、飛ぶボールがどうのこうのと出ていたけど、あれはどうなんだろうねえ」

 「私らはネットとかよう見んけど、さっき読んだ関スポにも出とったなあ」

 「関スポですか」

 関西スポーツ、通称、関スポは、「宇宙人発見か?」などの荒唐無稽な一面記事で知られる夕刊紙だ。興味本位の後追い記事が出ているのはよくないなと中島は思った。

 「ま、関スポやから、デマちゃいますか。だいたい、試合中のボールを都合よく取り替えるなんて、できまへんでしょ」

 やはり、そうだろうと中島も思う。何かの誤解かデマの類ではないかと思いたい。海側のバイパス道路を走るタクシーの前方に、そびえ立つ超高層ホテルの外観が見えた。

 「そやかて、面白おかしく書き立てられたら、監督さんも気が気じゃないでしょうな」

 「チャンプ、玉原監督が、ですか」

 「そら、そうや。トラブル騒ぎが大きくなれば、試合どころじゃなくなるんとちがうんか。そうなったら、大将が責任取らんと、収拾つかんで」

 「しかし、まだ・・・」

 中島が監督擁護の反論を仕掛けようとしたところで、車は球団本社ビルの入口に到着した。ざっと見渡したところ、張り込んでいる報道陣はいないようだ。

 領収証と釣り銭を渡そうと後部座席に振り向いた運転手は、右手を鉄砲のかたちにして中島の左胸のあたりを指した。いきなりのことに、中島は何が何だかわからない。運転手はにっこり笑って、前歯が抜け落ちた口を開いた。

 「あんたさん、ここの会社の人やろ。余計なことか知らんけど、心の臓に気いつけなはれ。ズドン」

 副業で占い師でもしているのだろうか。中島は、人並みに健康体だ。ずいぶんおかしな宣告を受けたものだ。降車後、中島は受付の守衛に久松社長への取り次ぎを頼んだ。

 球団事務所の1階ロビーには、チームの顔である中心選手たちのパネルが掲げてある。顔写真つきの選手名鑑を読むのが趣味というほどの野球オタクと言ってよい中島は彼らの出身校から、過去と今年の成績、推定年俸まで頭に入っている。

 正面最初は左のエース、江口史隆。背番号18。高校卒業後9年、今までベイライツのために108勝をあげている。万年Bクラスのチームにおいてそれは特筆すべき数字だ。彼は今年FA、フリーエージェントの資格を取得したはずだ。本人はシーズン終了までFAに関する話題を封印しているが、彼に退団されると投手陣が苦しくなることは間違いない。

 打者ではチーム生え抜きの打者よりも前に、あんまんこと安田満のパネルもあった。ネットのニュース記事で、疑惑のホームランと名指しされた飯谷裕三のパネルは見当たらない。去年まで守備要員として目立った活躍がなかったからだろう。

 そして、玄関ロビー奥の壁面、中央には監督の玉原一郎。にこやかに笑っている写真だ。本当にチャンプを守ることができるだろうか、中島は不安と責任を改めて感じる。

 「中島様で、いらっしゃいますね」

 不意に呼びかけられて、中島は我に返った。あわてて振り向くと、目元に笑みを浮かべた女性が立っていた。

 「久松の秘書の木村と申します。ご案内いたしますので、こちらへどうぞ」

 事務的な言い方ではあったが、言葉や表情に冷たさはなかった。彼女の後についてエレベーターへ向かいながら、自然と中島は木村と名乗った秘書の背格好が目に入った。

 1メートル78センチある中島の目線とほぼ同じ高さに頭がある。ヒール分を差し引くと165、6というあたりだろうか。肩までかかるストレートヘアの先端がきれいに揃えられている。多少は染めているのかも知れないが、黒髪に見えるのも、中島には好印象だった。

 中島は服装や髪型で、人の評価を決めつける気はない。本人が好きなようにすればよいと思っている。ただ、ビジネスパーソンである以上、若い社員が派手な茶髪に染めたり、相手に清潔感を感じさせない外見をしたりしているのは、本人や仕事にプラスとは思えない。あるいは、自分より年上の男性が白髪隠しか若作りか、妙に明るい茶色に染めたりしていると、かえって年齢を感じさせる場合があると思うだけだ。

 「東京よりも神戸はお暑くて驚かれましたでしょ。中島様は、野球がお好きなんですか」

 「え、ええ、まあ」

 エレベーターに乗った秘書が、最上階である5のスイッチを押すのを見ながら、中島は答えになっていない答えしか返せない。

 自分は何をやっているんだろうと中島は思う。オーナーの植田から特命を受けて、緊急事態に乗り込んできたのに、女性秘書と言葉を交わすのにも緊張して、うろたえている。

 それにしても、間近で中島を見上げる微笑みは魅力的だった。顔の作りは卵顔というのか、丸みを帯びた細おもてで、化粧は濃くなさそうなのに、まつげがはっきりした印象なのが意外だった。

 中島は視線をそらし、エレベーターが目的階に到着するまで、階数表示を見上げていた。5階に着くと、彼女は中島に先に降りるように勧めたあと、こちらへどうぞと言って、カーペット敷きの廊下を歩んで行った。紺のスカートに白いブラウスという普通の服装であったが、すらりとした体型に、歩くたびに少し揺れる髪が似合っていた。

 中島が通されたのは、球団社長専用と思われる広めの応接室であった。室内のサイドボードに何かの記念のボールやトロフィーがあり、ボード上には玉原監督を中心に、植田オーナーと3人で手を握り合っている大きな記念写真が飾ってあった。恐らくこの人物が久松社長だろう。

 不思議と気になる女性だったな。神戸にいる間に、また会う機会はあるだろう。中島はそう思い、大事な仕事前に、何を考えてるんだと自らを戒めた。(次回につづく