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連載小説3回裏:飛ぶボールを試合に使うことは可能なのか?

3回裏 チャンプ

滝沢 隆一郎

    3

 「お疲れ様でした」と明るくねぎらう声で、木村亜矢子社長室長が入ってきた。中島は簡単に面談の様子を報告した。この日の聞き取りは、岩丸弁護士がメモを作成し、中島が内容を確認し、今後の資料の1つとすることに決まった。

 木村室長は球団職員ということで聞き取りには同席しなかったが、その間に、候補にあげていた調査委員への連絡を進めたとのことだった。大阪産毎新聞の記者出身でスポーツ関係にも明るい鳥谷誠行氏、スポライが買収してベイライツとする前の球団である神戸ベイシティ・プラネッツOBで、関西球界で人望がある梨本信三氏に連絡し、委員就任と調査方法につき承諾を得たという。また、ボールの性能について物理的調査ができる大学院研究者にもオブザーバー的役割での協力をしてもらえそうとのことで、明日の午後1時に第1回目の会合を開くことでよいか承認を求めてきた。

 中島は木村室長のフットワークのよさと交渉能力に改めて驚いた。名前の通った鳥谷氏と梨本氏が加わった調査委員会の結論であれば、世間も日本プロ野球機構も納得するだろう。

 この後は、実際の球場に行って、試合球の搬入方法の説明を受けることになっている。面談中にこちらの方も、木村室長が用具担当者に説明の手配をしてくれたのだ。中島は目の前を試合球の保管場所へさっそうと歩く木村への信頼感を強めた。

 それに比べて、岩丸弁護士の方は「いやあ、こんなに時間がかかるとは思わなかったなあ。この後事務所に来客があるし、今日の聞き取りメモも作らねばならないから」と言って脱兎のごとく帰ってしまった。中島はこんなにも早く、お得意の早歩きを見ることになるとは思わなかった。

 「えーと、ひと試合に、使用する公式認定ボールの数は、ざっと80球から多い場合は120球くらいになります」

 吉田という若い用具担当者は、まじめな表情で説明し始めた。グラウンドへとつながる一塁側通路に面した用具保管用の一室である。

 「1試合に100球前後も使うんですか。予想以上に多いですね。9イニングで割ると、1イニング10球以上。表と裏があるから、1回の攻撃に平均5球くらいは使っている計算になりますね」

 中島は素早く計算してみせた。

 「えーそうです。ファウルでスタンドに入ってしまう場合もありますが、ゴロや捕球の際に土がついて汚れてしまった場合、ピッチャーが嫌がって交換を要求する場合もありますので」

 「ああ、よくテレビで見ますね。子どものころ、草野球で、軟式ボールがどんどんすり減って、丸っこくなるまで大事に使った私からすると、もったいない気がします」

 「部分的に土がつくと、不規則に変化しすぎて、狙ったところにコントロールできなくなるんです。でも、軽い汚れであれば、消しゴムを使って新品同様にしてまた使ったり、練習球に使います」

 ファールボールはキャッチできた幸運な観客に渡さず、頭を下げて回収している。中島の横で話を聞いている木村によれば、ベイライツでは、ファンクラブ向けに作成したピンバッジを交換で渡しているとのことだ。ホームランボールは回収しない。用具担当の吉田の説明はつづいた。

 「主審の方は、いつも5、6個のボールを左右の腰の位置につけた袋に入れています。足りなくなりそうになると、イニング間の攻守交代中に補充したり、ボールボーイを呼んで受け取ります。われわれのホームゲームの場合、試合前に5ダース、60球を用意し、足りなくなれば、予備球を渡します」

 「試合に使う球は、JPB公認のマークがついていますよね」

 木村室長が質問をはさんだ。JPBとは日本プロ野球機構の略称である。

 「はい、そうです。今はエムズ社1社の統一球になっていますが、ボール・テストと言って、大きさや重さ、反発係数などをJPBでチェックするそうです。それでテストに合格すると、ボールに公認球であると刻印されます。まあ、メーカーが検品済みのものが不合格になることはないと思いますが、それを12球団が使用しているわけです」

 「ちょっと待って。そうすると、統一球よりも極端に飛ぶボールというものがあったとしても、JPBの刻印がないのだから、試合中にすり替えるなんてことは不可能ということになるわよね」

 「私もそう思います」

 返答した吉田担当と同じく、中島も木村室長の指摘は正しいと思う。

 「中島さん、これは調査の結論について、有利な情報ですね」

 「そうですね。やはり自軍の攻撃のときだけ、都合よく飛ぶボールにすり替えることはできないな。それに、吉田さん。この場所は出入り業者や球団アルバイトなどが誰でも自由に立ち入ることができる場所ではないですよね」

 「それは、そうです。もちろん、ボールボーイはいますが、皆さんまじめな学生さんですし」

 まじめに受け答えしている吉田が嘘をついているようには見えない。性格的に自分で事実を確認したいタイプの中島であるが、飛ぶボール疑惑は、まったくのデマ、噂話にすぎないのではないかと思えてきた。これならチャンプ、玉原監督を守れという植田オーナーとの約束を果たせそうだ。中島は聞き取った内容を調査委員への報告用に文書化しておいてほしいと木村室長に依頼した。

 今夜は試合を見にいったらどうですかという木村室長の言葉に甘えて、中島は一塁側内野スタンドに陣取った。一緒にどうですかと誘おうかと思ったが、明日の調査委員会の準備もあるだろうと逡巡しているうちに、タイミングを逸してしまった。しかし、好きなチームの試合を生で観戦するのは純粋に楽しみだ。ベンチ前に出てくる選手たちにわくわくする。さあ、飛ぶボール疑惑を払拭する勝利を上げてくれ。

 ベイライツ球場は、センターまで122メートル、両翼まで100メートルと広い。ドーム球場の天井は開閉式で、晴れたデイゲームや夏のナイターには屋根を開いて試合を行うことができる。

 収容観客数は3万5000人。だだっ広いフィールドの中に、少しだけ盛り上がったピッチャーズマウンドがある。球場内の全員の視線が集中する中、一人でマウンドに立って18.44メートル離れたホームベースまで、針の穴を通すようなコントロールで、打者が打ちにくいボールを投げられる人間は、どういう神経をしているのだろう。並の人間であれば、マウンドに立っただけで、緊張のあまり足が震え心臓の鼓動が速まるに違いない。

 先発は右の佐藤。期待されている2年目の若手投手だ。しかし、試合が始まるとすぐにベイライツは満員のファンを落胆させた。1回表、佐藤が先頭打者を四球で出すと、守備が得意ではないあんまんこと安田満がなんでもないファーストゴロをはじいてしまう。初回は2点で済んだものの、2回表にも5連打を浴びて3失点。一方、ベイライツ打線は沈黙をつづけ、6回表までに0対7、ワンサイドゲームとなってしまった。

 その裏、ミラクル・シックスと呼ばれたベイライツの攻撃前。1塁側の内外野客席前ではベイライツ・ガールという名のチアガールが球団応援歌に合わせてダンスを披露している。スコアボードの大型スクリーンに映し出される彼女たちの笑顔は皆晴れがましく誇りに満ちている。厳しい選抜とレッスンを乗り越えてきた自信の表れだと中島は思う。

 ふとバックネット付近に目を移した中島は驚愕した。主審がボールボーイから新しいボールを次々と受け取っている。それはイニングの合間の当たり前の光景と言えたが、中島には恐ろしい考えがひらめいた。

 通常、主審は、腰につけたボール袋に左右3個、合計6個程度のボールを入れて、必要があれば取り出して使用している。審判だって新しいボールを出されれば、素直に受け取る。6回裏に足りない分の補充だけでなく、6個とも新しいボールに交換することだって出来なくはないはずだ。もし本当に飛ぶボールが存在し、ベイライツがそれを用意さえすれば、6回裏の攻撃が始まる前に、主審に飛ぶボールを渡して確実に使用することが可能となるのだ。

 しかし、この日、6回の裏は何も起きなかった。3番から始まる打順だったが三者凡退、あんまんはあっさりと空振り三振に終わった。これでは7回から自慢のAKBトリオを登板させる意味もない。試合は結局、0対9の完敗だった。

 ホームに戻った東京ジーニアスの結果は勝利だったので、1試合で首位を明け渡したことになる。そのことよりも、中島は、ベイライツの誰かが関与していれば、6回の裏に飛ぶボールを渡すことはできるという簡単な事実に、戦慄を覚えた。(次回につづく

 ▽この物語はフィクションであり、登場する人物や会社、組織などはすべて架空のもので、実在のものとは異なります。