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将棋:情勢を客観的に見ることと彼我の思考・感情を読むこと

早田 尚貴

将棋とインターネットと私

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
早 田 尚 貴

 1. 将棋と私

早田 尚貴(はやた・なおき)
 1990年、東京大学法学部卒業。1993年、裁判官任官。1993年から2012年にかけて東京地裁判事、東京高裁判事、知財高裁判事、最高裁事務総局行政局第一課長などを歴任。1998年から1999年までSuperior Court of New Jersey等にて在外研究。2012年、弁護士登録(第二東京弁護士会)、坂井・三村・相澤法律事務所(外国法共同事業)オフカウンセル。2015年4月、事務所統合により当事務所スペシャル・カウンセル就任。
 「趣味は将棋です」
 自己紹介でそう言わなくなったのは、いつからだろうか。

 いつの間にか50歳になったが、少なくとも、私の前半生は常に将棋が傍らに存在したと言ってよい。
 小学3年のときに友人から駒の動かし方を教わり、本屋で買った「将棋入門」を片手にクラスで一番強くなろうと努力した日々。中学校に入ると、それまでの友達とはレベルの異なる強い友達とめぐり合い、今から思えば噴飯ものだが、彼に勝ちたい一心で誰も指していない独自の新戦法を開発しようと研究した日々。
 九州の片田舎の高校生として、都会の大学の将棋部に憧れ、大学入学後は念願の入部を果たして、学業そっちのけで、文字どおり将棋(と麻雀)に明け暮れた日々。
 大学時代の後半、司法試験の受験勉強を始めるようになってからは、将棋と接する時間も自然と減っていったが、それでも、各種のアマチュアの大会に出場し、県大会で優勝し、全国大会にも二度出場することができた。

 主な戦績。昭和62年東日本学生名人、平成4年アマ竜王戦大分県代表、平成14年アマ竜王戦沖縄県代表。

 全国レベルでの活躍はできなかったが、自分の持って生まれた才能からすれば、上出来の戦果だと思うし、実力はともかく、勝負運には恵まれたと心から感謝している。

 2. 将棋とインターネット

 「今でも大会に出たりしているのですか」

 たまにそう聞かれることがある。
 ここ10年以上、公式の将棋大会には出場していないし、明らかに将棋は弱くなってしまったが、別に将棋を忘れたわけではない。今でも日曜のNHK杯テレビ将棋トーナメントは録画して欠かさず見ているし(むしろ、囲碁の方を楽しみに見ているところはあるが)、インターネットの将棋サイトで将棋を指すこともそれなりにある。

 今でこそ、インターネットを介した将棋対局は当たり前のものとなっているが、私が初めてインターネット将棋なるものを知ったのは、1997年の年末のことであった。
 当時、私は、判事補在外特別研究員として米国ニュージャージー州裁判所へ派遣されることが内定していたことから、翌年夏からの1年間の在外研究中に日本と連絡を取る手段として、また、初めての外国暮らしを前に情報収集をするための手段として、機械オンチの身を顧みず、個人用のパソコンを購入し、インターネットを始めようと思い立った。これが、私がインターネット将棋を知ることとなったきっかけである。
 インターネット将棋の登場以前、将棋を指す(対局する)といえば、生身の人間と対面で指すことを意味していた。新宿、御徒町、蒲田・・・多くの街にはそのような対局の機会を提供する場として「将棋道場」と呼ばれる会席所が存在し、将棋を指したいと思えば、そのような場に足を運んで、集まった同好の士と対戦するのが、ほとんど唯一の手段であった。とはいえ、わざわざ道場に赴いても、その日、その時間に、自分と実力が拮抗する好敵手がそこにいてくれるとは限らない。したがって、道場側からすれば、多くの強者を確保することが至上命題であり、そのため、各道場は、賞金トーナメントなど様々な企画を催して、集客に努めていたものである。
 しかし、インターネット将棋においては、そもそも、道場まで足を運ぶ、という作業が不要である。猛者が集まるという評判の高い遠方の道場まで好敵手を求めてわざわざ出かける必要などない。サイトにログインすれば、そこに何百という対戦相手が存在するのだから。しかも、インターネット対局を始めるようになって間もなく、私は、インターネット上には、全国クラスの実力を持つ強者が多数参加しているという事実に気づいた。つまり、インターネット対局では、文字どおり、いながらにして、全国クラスの強者と毎日のように対局することができるのである。これは、当時の私にとっては衝撃的ともいえる大発見であった。
 冷めかけていた私の将棋熱は瞬く間に再燃し、それが、平成14年には10年ぶりの県大会優勝につながる原動力となったのであるから、世の中、何が幸いするか分からないものである。

 余談であるが、すっかり将棋が弱くなり、以前のような強者との対局を求める気持ちがなくなってしまった今の私にとっても、インターネット将棋は非常に便利なものである。将棋には点数的な要素が一切なく、勝ちか負けかの結果以外に評価の指標がない。そのせいもあって、将棋に負けたときの悔しさの度合いは、他のゲームと比べても厳しいように感じているが、相手の顔が見えなければ、「負けました」と相手に投了を告げるときの、あの何ともいえない悔しさ、切なさ、やるせなさも相当に和らぐ。負けた悔しさをほとんど感じずに済むというのは、リアル対局と比べたインターネット対局の最大の特色ではなかろうか。
 逆に言えば、インターネット将棋においては、将棋を純粋に「知的ゲーム」として楽しむ環境が整っているともいえるわけで、おそらく、インターネット将棋の普及後に将棋を始めた少年は、常に「人」であるライバルばかりを見てきた私の少年時代とは、全く異なる心持ちで将棋と向き合っているのではないかと想像している。

 3.将棋の才能とは

 「どうして大会に出なくなったのですか」
 これも、たまに聞かれる質問である。

 私が将棋の大会に出なくなった理由は、一言でいえば、将棋を指す上で、自分の才能の限界を自覚したためである。大会に出て、それなりの成績を収めたいと思えば、序盤の定跡に関する情報収集や研究に相当程度の時間を費やし、さらには、詰め将棋を解くことなどによる日々の思考トレーニングも欠かせない。しかし、そうした鍛錬以前の問題として、私は、自分には将棋に勝つために不可欠な能力が欠けていることに気づいてしまったのである。

 私に欠けている将棋に不可欠の能力とは何か。

 それは、将棋の盤面を客観視する能力である。1局1局の将棋に感情移入しないことと言い換えても良い。そんな簡単なこともできずに四半世紀も将棋をやってきたのかと言われてしまえばそれまでであるが、将棋に対し真剣に取り組めば取り組むほど、私にとっては、これがなかなか難しいことなのである。
 例えば、序盤中盤と優勢に進めていた将棋で、終盤戦のさなか、自分にミスが出て、追い込まれてしまった局面。どうしても焦るし、ミスさえしなければ、こうやって簡単に勝てたのに・・・などという後悔も出る。そうこうするうちに持ち時間も減ってきて、読みの裏付けのないまま、次の手を指して、ついに本当に逆転。そのまま負け。こんなことは数え切れないほど経験した。
 そもそも、将棋で次の着手を決定する思考過程において、「序盤中盤と優勢に進めていた」とか、「自分にミスが出て」とか、「追い込まれた」とかの事情は、次の着手とは何の関係もない完全に不要な情報である。とりたてて焦る必要などないし、ましてや、過ぎてしまった過去のことを後悔しても全く何の意味もない。まさに時間と思考の浪費である。現在、目の前にある局面を客観的に把握し、その場その場での最善手を探して、緻密に先を読む。それ以外に道はないはずなのである。
 しかし、私にはそれがなかなかできない。優勢に事が運べば嬉しくなるし、勝ちが目の前に近づいてくれば浮き浮きする。自分の王将は可愛いし、相手の駒は憎たらしい。そうした感情を持てば持つだけ損だと分かっていても、どうしても感情移入してしまう。
 さらに酷いのは、私には、対局中、対戦相手の思考過程や感情を読み取ろうとしてしまう癖があることである。相手の思考を読むことが仮に可能であるとしても、極めて精度は低いし、しかも、読み取った思考過程が仮に正しかったとしても、最終的に相手がその手を指すかどうかは、最後の最後まで分からないから、そのような不確実な情報を基に自己の着手を決定することは有害無益である。
 例えば、自分の候補手としてAとBとの2つの選択肢があり、仮に自分がAを指せば、これまでの流れから相手はCの手を指してくるという予感があり、そうなれば優勢になるが、相手にCではなくDの手を指されれば逆に不利になってしまうという局面があったとしよう。この局面での最善手は、いうまでもなく「B」である。しかし、私の場合、楽をして勝ちたいという気持ちから逃れられないためか、どうしても「A」を選びたくなってしまうのである。人間が甘いといえば、それまでであるが。

 4.将棋の才能はなくとも

 他にも例を挙げれば切りがないが、私に将棋の才能がないということは紛れもない事実である。確かにそうなのであるが、裁判官として20年、更にその後、弁護士として各種の紛争解決手続に携わってくると、不思議なことに、この程度の中途半端な「読み」の能力の方が、案外、実際の役に立つことも多いということに気づかされる。
 これは、おそらく、実社会で起こる出来事は、将棋の盤面のように純粋に突き詰めた論理的思考のみから生まれてくるものではなく、感情を含めた全人格的な産物であるためなのであろう。現実の紛争解決過程においては、相手の思考過程や感情を正確に読み取ることまではできないにしても、それらを考慮することによって、むしろ、実体に近い、比較的正確な先読みができる傾向があると感じている。
 もちろん、現実の紛争でも、置かれた状況を客観視することの重要性はいうまでもないが、将棋で苦労してきた分、かなりの程度はそうした能力も身についたと思っている。盤面に感情移入してしまうという私の抜き難い性向も、現実の紛争解決過程においては、難しい案件を何とか良い方向に向けたいと努力する場面などでは、良い方向に働いているともいえなくはない。
 さらに、将棋を指す上で不可欠の能力が欠けているにもかかわらず、それなりの戦果を収めることができたことは、私自身の心の中で、自分には勝負運があるはずだ、という根拠のない自信となっているところがある。もしかすると、これが、将棋に情熱を傾けた私の前半生に対する、将棋の神様からの御褒美なのかもしれない。

 こうしたわけで、今では、「趣味は将棋です」とは言いかねるのが実情だが、いつの日か、再び将棋への情熱を取り戻し、若者に混じって、もう一度、全国大会に出場してみたい・・・などと密かに夢見ていると書いたら、楽観的すぎると笑われるであろうか。