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通産相への2千万円を写真撮影「このカネを持っていきますから」

コンサルタントが政界工作の実態を語る

村山 治

 たかだか500人規模の暴力団工藤会に対し、警察、検察が2014年9月以来、総力を上げて「頂上」作戦を展開している。その成果を検証し、今後の課題を連載で探る。第5回の本稿では、工藤会が深く関与したとされる白島石油備蓄基地をめぐる「政・官・業・暴」利権について、当時、渦中にいたコンサルタントが実態を語る。

■「白島基地工事再開で三塚元運輸相に陳情」

満井忠男氏
 関係者によれば、東京の不動産業「三正」の満井忠男社長は、白島の地元・北九州市若松区選出の横田初次郎県議(故人)と北九州市の不動産業「日本地所」の安藤春男会長(故人)とともに、白島石油基地建設の一括受注を目指す日立、間組(現ハザマ)など5社の企業グループとコンサルタント契約を結び、政官界などへの工作を行ったとされる。

 まずは、1987年2月の暴風雨で防波堤が崩壊し、白島石油備蓄基地の建設工事がストップした問題で、建設工事再開のため、満井社長が三塚博元運輸相に陳情したという場面から始めよう。

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 白島基地の防波堤の崩壊は、防護のため海中に投入していたコンクリート製のテトラポットが暴風雨による荒波で流出したのが原因だった。工事を再開するには、より大きなテトラポットを大量に海中に投入することが必要だった。満井社長によると、当時、追加資金は200億円とゼネコンによって見積もられたという。

 投入するテトラポットの大きさや投入量については、海面埋め立ての認可権を持つ運輸省の認可が必要だった。満井社長によると、流出したテトラポットは埋め立て工事認可時に運輸省が「波に流されることはない」と「お墨付き」を与えて認可したものだった。

 流出の責任追及を恐れた運輸省側は、ゼネコンなどからテトラポットの大型化について提案を受けても尻込みし、建設計画は宙に浮いていた、と満井社長は言う。

 ゼネコン側は、30トンのテトラポットを50トンにする新しい計画を立てて運輸省に認可を求めた。その試算額が200億円だった。ところが、運輸省は当初の工事計画の工法や資材について「これなら絶対大丈夫、100年持つ」とお墨付きを与えていた。新しい計画を認めれば、当初工事を認可した際の判断ミスを認めることになる。だから抵抗した。福岡県や北九州市にも運輸省の出向者はたくさんいたから、県も市も積極的に声を上げなかった。

 工事がストップしたゼネコン側は困った。工事中にまたおおきな台風でも来れば、もっと被害が拡大する。それで、あるゼネコン関係者が「コンサルタント契約は終わっているが、運輸省のクビに鈴をつけてほしい」と頼みに来た。

 事故から数カ月後だったと思うが、三塚さんに接触した。三塚さんは、私と同郷(長崎県)で郵政大臣を務めた白浜仁吉衆院議員(衆院長崎2区、故人)の紹介で知り合い、親しくなっていた。「清和会」(自民党の首相候補の一人だった安倍晋太郎氏の派閥)の事務総長室で三塚さんと面談した。

 「日本は世界に冠たる海洋国家だ。世界の参考になるような洋上備蓄基地をつくるための授業料だと思って、国の責任としてカネを出してほしい」と直談判すると、三塚さんは「いいこというな。まいったな」と協力を約束してくれた。その後、三塚さんがどう動いてくれたかはわからないが、防波堤崩壊でストップした工事再開ができたのは、三塚さんのおかげだと思っている。まさに天の配剤だった。

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三塚博氏
 三塚氏は1985年12月から翌86年7月まで中曽根内閣の運輸大臣を務め、国鉄民営化に向け辣腕を振るい、1987年2月の防波堤崩壊当時は有数の運輸族議員として知られていた。当時は、清和会の事務総長を務めていた。報道によると、防波堤崩壊で中断した白島基地の工事が動き出すのは、89年秋になってからだ(1989年9月2日朝日新聞朝刊記事「石油公団、工事再開の方針 北九州・白島石油備蓄基地」、1989年9月20日朝日新聞朝刊記事「通産省も再開了承 白島石油備蓄基地工事」)。満井社長の記憶通りだと、陳情してから工事再開まで2年以上かかったことになる。

 三塚氏は防波堤崩壊から1年10カ月後の1988年12月から89年6月まで石油公団を監督する通産相も務めた。三塚通産大臣の秘書官だった青木昭宣元秘書は言う。

 親父(三塚氏)は、満井さんと親しかった。大臣時代も派閥の事務総長時代も、何度も満井さんと会っている。2人だけで会うのも珍しくなかった。仮に、満井さんの陳情が通産相時代の話なら、私にも親父から一言あるはずだが、白島基地問題で何か陳情を受けた記憶はない。満井さんは噓を言うような人ではない。二人の間でそういうやりとりがあってもおかしくない関係ではあったと思う。

 清和会の事務総長は激職だ。閥務で手いっぱいで、各省庁の政策にはかかわる余裕がない。当時、事務総長室を使うのは、事務総長だけだった。派閥の大臣は、事務総長に遠慮して総長室は使わなかった。派閥の親分も、それは同じだ。

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 満井社長は自他共に認める清和会シンパだった。特に、三塚氏を資金面でも応援した。1987年9月4日付朝日新聞朝刊の記事「地上げ業者ら三塚氏らに献金攻勢 61年政治資金報告書」によると、満井社長は、86年2月、満井個人と「三正」名義で計500万円を三塚氏側に献金していた。

 総選挙や自民党の総裁選の時に安倍さんや三塚さんらに対する応援はした。まとまったカネを出したことはある。ただ、資金提供の見返りとしてものを頼むことは一回もなかった。頼まれたときには黙って出すが、こちらが何か頼むときは、カネは一切もっていかなかった。

 三塚さんは派閥のボスの安倍晋太郎さんを総理大臣にしようと頑張っていた。安倍さんが志半ばで病死し、三塚さんも総理になれなかったのは残念だった。

■波瀾万丈

満井忠男氏
 満井社長の人生は波瀾万丈だ。バブル期、東京都心部の土地の「地上げ屋」として名を馳せた。「最高で4000億円の資産があった」と満井社長はいう。一方で地主や家主側の権利強化のための借地借家法改正運動に取り組み、バブル崩壊後に不動産業界に対する批判が集まった時には、「全国貸地貸家協会理事長」として月刊文芸春秋1992年10月号の「特集 日本の時代は終わったか」で「官僚栄えて国滅ぶ 悪玉(!?)不動産業にもひと言いわせて欲しい」を発表。

 「いま思えばバブル経済を演出したのはまさしく大蔵省を中心とする官僚たちであり、それが弾けていく過程でツケを国民に押しつけたのも彼らだった」などと大蔵省などの金融失政を鋭く追及。「私は湾岸戦争の時に、アメリカの大学にいる自分の息子に志願兵として戦場にいくよう勧めました。(略)その頃の私にはまだ愛国心があった。(略)手前勝手な役人がいて、いいかげんな政治家がいて、そんな連中の食い物になっているこんな国を誰が愛せるものか。もうごめんです」と記した。

 しかし、バブル崩壊にともなう不良債権処理をめぐり、1998年、住宅金融債権管理機構などによる差し押さえを免れる目的で財産を隠したとして、強制執行妨害などの罪に問われ、懲役1年6月執行猶予3年の有罪判決を受けた。

 さらに、2007年6月、その事件で満井社長の弁護人だった元公安調査庁長官の緒方重威弁護士とともに逮捕され、耳目を集めた。

 破綻した朝銀信用組合の巨額の不良債権を引きついだ整理回収機構が、朝鮮総連中央本部の土地建物を競売にかけようとしたことが事件の発端だった。総連側は強制執行を適法に免れるため、本部機能を保ったままいったん売却した後に買い戻しに応じる相手を探していた。緒方元長官と満井社長は出資者を探すなどと装って資金と土地建物をだまし取ったとして詐欺罪で起訴され、2014年5月、最高裁でともに執行猶予付きの有罪判決が確定した。

■巨大プロジェクトとのかかわり

 白島基地建設計画に関わった当時、満井氏は40代半ば。すでに長崎県などで開発事業を手がけ、政界にパイプを持っていたという。そもそも、どういういきさつで白島基地建設にかかわることになったのか。

 1973年の第一次石油ショックでリゾート開発目的で韓国・済州島に保有していた200万坪の土地の開発計画が不調となり、その土地に石油備蓄基地を誘致することを思い立った。もともと国家の重要基盤であるエネルギー関係の事業に関心があった。親しくしていた白浜仁吉議員とともに資源エネルギー庁の幹部に相談に行ったら、幹部は「何も済州島でなくても、地元の長崎に島はいっぱいあるでしょう。そのどこかの島でやられたらどうですか」と言った。

 白浜さんは、通産政務次官をやっていて石油備蓄の知識があり、その当時、すでに上五島の島に作れないか、とのイメージを持っていた。それで私が、上五島の島を先行買収することになった。こちらも、後に、国家備蓄事業の上五島洋上石油備蓄基地として完成するのだが、島の先行買収をしていたら、野田卯一衆院議員(衆院岐阜1区、故人)を介して安藤会長から、北九州の白島でも計画があるので応援してほしい、と依頼があった。

 上五島と二足の草鞋は履けない、と迷った。しかし、安藤さんは「国士」だった。その熱意にほだされた。また、地元の漁協組合長の梶原国弘さんが仲間で、地元の漁協の協力をとりつけられるのは間違いないとの話だったため、実現可能性が大きいと判断し、白島プロジェクトに参加することを決断した。

 野田議員は、元大蔵官僚。1948年から1年間、大蔵事務次官を務めた。参院議員を経て、53年衆院岐阜一区から初当選し、79年まで9期務めた。建設相、経済企画庁長官を歴任。満井氏に安藤会長を仲介した当時、野田議員は不動産業者の全国組織である全日本不動産協会(現公益社団法人)の会長を務めていた。満井社長によると、満井社長、安藤会長とも同協会の会員だった。

 白浜議員は、長崎県出身。長崎二区から当選12回。東京慈恵会医大卒、長崎県議を経て1952年、衆院初当選。通産、防衛各政務次官、衆院予算委員長を経て大平内閣の郵政相を務めた。

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 当時、洋上石油備蓄基地は世界でも例がなく、リスクも高いとされていた。それに日立造船や間組、新日鉄など有数の大企業がかかわることになったのはなぜか。満井社長が振り返る。

 実は、日立造船に話をしたのは私だった。同社の副社長と懇意だった。当時は造船不況で、日立造船は仕事がほしかった。原油を貯蔵するエンジンのない大型船を何隻も受注できる、というと、飛びついてきた。新日鉄を抱える地元の北九州市の経済も「鉄冷え」で低迷していた。地元の経済が活性化し、造船会社も製鉄会社も、ゼネコンも潤うおいしい計画だった。日立造船が音頭を取ってハザマや新日鉄も白島プロジェクトに参加することになった。

■工作

 白島石油基地は、当初、民間備蓄基地として構想された。当時は国家備蓄の計画はなかった。リスクの大きさから、備蓄の主体となる石油会社は民間備蓄に消極的だったとされる。そうした中、1978年に、石油開発公団法が改正され、90日を上回る備蓄として石油公団が当面1千万㌔リットル規模の国家備蓄を実施することになった。企業グループは、白島備蓄基地計画を国家事業にするよう公団に売り込み、成功する。その舞台裏を満井社長が語る。

 安藤会長や梶原国弘氏らは、まだ白島の備蓄基地の話が出る前に、地元の田中六助衆院議員に「白島を何か開発事業に使えないか」と相談したが、「とても無理だ」と断られていた。そういう経緯もあって、総理府総務長官や自民党の国会対策委員長を歴任した三原朝雄衆院議員や旧知の白浜衆院議員に頼んで動いてもらった。

 三原さんは実力者だった。役所を動かす勘所がわかっていた。石油公団法が1978年にでき、石油の国家備蓄の方針が決まり、白島基地も国家備蓄にするよう石油公団の幹部らに働きかけていたが、なかなかうまくいかなかった。そこで三原さんに「公団が煮え切らないので、はっきりさせてほしい」とお願いした。そうしたら、すぐ長官室に石油公団の幹部を呼び、私の目の前で『四の五の言うなら、国会の委員会でしゃべってもらうぞ』と迫った。予算委員会などで質問させ言質を取るぞ、ということだ。それを聞いた幹部は震え上がり、あっという間に話は進んだ。

 三原議員は、福岡県議5期を経て1963年に衆院旧福岡二区から初当選し、連続8回当選した。文相、防衛庁長官を経て1978年12月から79年11月まで総理府総務長官だった。86年の衆院解散時に政界から引退した。北九州、筑豊の産炭地から玄界灘に注ぐ遠賀川沿いの出身。戦前のアジア主義の巨魁といわれた頭山満らの知遇を得て大陸に渡ったこともあったという。1977―78年に自民党国会対策委員長を務めたほか、自民党国防族の代表格として長く党安全保障調査会長を務めた大物議員だった。

 その三原議員の公設秘書、竹内初男氏は、1981年4月13日、安藤会長とともに白島基地建設の埋め立て認可権を持つ運輸省第4港湾建設局(山口県下関市)に企業グループが建設工事を一括受注できるよう求める要望書を持っていき、基地関連の清掃会社の役員になっていたと報道され、三原議員が直接、建設局に陳情したこともあるとも報道された。三原議員は当時、衆院予算委員会の理事だった。

■25億円の行方

 満井社長らは、企業グループから25億円の工作資金を受け取ったと報道された。その金をどう使ったのか。

 25億円のカネが動いたことは否定しない。事業を進める「経費」がかかった。梶原氏がまとめた48億円の漁業補償は、表のカネ。裏でもカネが行っている。企業グループから運動資金を出してくれることになっていたが、漁協で旅行にいく、その費用を出してくれ、など急にカネが必要になる。1000万円単位のカネ。企業にいっても稟議が必要ですぐ出ない。だから私が立て替えることになった。

 地元対策費などとして政治家や顔役にカネを渡すのは安藤会長の仕事で、私はカネを調達し、安藤会長から言われるまま、カネを用意する係だった。入出金の記録は一切残さなかった。

 三原衆院議員に3億円渡ったのではないか、と当時、市民団体などに追及されたが、三原衆院議員側に何かを請託して対価としてまとまったカネを渡したことはない。もちろん、選挙では精いっぱいの協力はしたが……。

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 三原議員の秘書でありながら企業グループが工事を一括受注できるよう安藤会長とともに動いたと報道された竹内初男氏にも聞いた。竹内氏はこう振り返る。

 地元の横田初次郎県議から白島基地建設促進に協力してほしいとの話があって、三原先生も了承の上で、動いたことはある。安藤さんや満井さんとも会っていた。しかし、安藤さんと一緒に第四港湾建設局に行った記憶はない。私は公設第一秘書として議員会館に常駐していた。白島基地の関係では、そこに企業グループの関係者や役所の人が議員会館に来た記憶はない。

 三原先生は、清貧、潔癖な人。カネがなく、いつも選挙では苦労をしていた。同じころ、当時、福岡に薬科大学をつくるので口添えをお願いしたい、と関係者が議員会館の事務所に新聞紙に包んだカネを持って来たが、受けとらなかった。

 だから、白島基地にからんで裏金で3億円もらう、というのは信じられない。私自身、安藤さんらの清掃会社の役員になっていたことを知らなかった。安藤さんらが気を遣ってそうしてくれたのかもしれないが、会社設立には関わっていないし、給与も貰ったことがない。

 不思議なのは、白島基地建設が決まっても、横田さん、安藤さん、満井さんからも企業グループからお礼の一言もなかったこと。東京から地元に帰るたび、あの巨大なプロジェクトはどうやって完成にいたったのか、と考えたものだ。私らには見えないところで、何か流れが変わったのでしょうか。

■「盟友」

 竹内氏の「お礼の一言がなかった」とのコメントについて、満井社長は「政治家や暴力団、漁協などへの直接のやりとりは安藤会長がやっていた。安藤さんがプロジェクトの途中で病死したため、安藤さんが相手とどういうやりとりをしていたのかわからない。だから、下手に挨拶にいけなかった。竹内さんには苦労をかけた」と言う。

 その安藤会長は1985年春、死去。満井社長は、同年4月3日に行われた葬儀で友人代表として弔辞を読んだという。弔辞は、白島基地建設をめぐる利害調整や政界工作の激務が命を縮めた、と安藤会長を悼み、合わせて舞台裏の話も紹介している。(弔辞全文

 昭和48年のオイルショックの直後、全日本国際不動産投資株式会社の定例役員会の席で地元の若松沖にある白島の事業化について何人かの人達がサジを投げているが、自分の幼少からの友人で脇の浦漁協組合長の梶原国弘氏が自分に、この島をなんとか物にしてくれ、とたって言うので(略)一つ、君も協力してくれと相談を受けました。

 これは、梶原国弘元脇之浦漁協組合長が、白島基地計画当初から安藤会長らと密接に関係していたことを示唆するものだ。さらに、弔辞は、プロジェクトを進めるため安藤会長と満井社長が懸命に政界に働きかけていた事実にも触れている。

 民間石油備蓄計画から国家石油備蓄基地計画にかわる際、石油開発公団法の改正に至っては、国家会期末の(昭和)53年6月14日に、二人は心配して、当時の国体委員長の三原(朝雄)先生の部屋に行き、4時間も待ってただ一言の返事をもらって安心して帰った思い出もあります。又代議士の先生方の理解とひとかたならぬ御努力に通産省、石油公団は国家備蓄事業に移行することを決定……

■通産大臣に2千万円を提供した理由

 三原議員と並ぶ北九州の地元選出の大物議員だった田中六助元自民党幹事長(故人)も、通産相に就任した直後の1980年11月、福岡県議から現金

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