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「説明なしに患者を実験材料にしてはならない」妻の遺志で提訴

金沢大学病院「同意なき臨床試験」(1)

出河 雅彦

 より有効な病気の治療法を開発するために人の体を使って行う臨床研究は被験者の保護とデータの信頼性確保が欠かせないが、日本では近年明らかになったディオバン事件にみられるように、臨床研究をめぐる不祥事が絶えない。この連載第1部では、生命倫理研究者の橳島次郎氏と朝日新聞の出河雅彦記者の対談を通して、「医療と研究をきちんと区別する」という、現代の医学倫理の根本が日本に根づいていないことを、不祥事続発の背景事情として指摘した。第2部では、患者の人権軽視が問題になった具体的な事例を検証する。愛知県がんセンターの「治験プロトコールに違反した抗がん剤投与」に続くその第2弾として取り上げるのは、金沢大学病院で行われた抗がん剤の臨床試験で説明を受けないまま被験者にされた女性の遺族が国に損害賠償を求めた「同意なき臨床試験訴訟」である。この訴訟では、愛知県がんセンター抗がん剤治験訴訟のように新薬の治験ではなく、薬事承認を受け、保険診療が認められていた薬を用いた臨床試験におけるインフォームド・コンセントのあり方が問われた。第1回では、「医者が、何の説明もなしに患者の体を実験材料に使うことは決してあってはならないことではないか」という手紙を残して亡くなった女性の遺志を受けて、夫が提訴するまでをたどる。

金沢大学病院
 国立金沢大学医学部附属病院(現・国立大学法人金沢大学附属病院。以下、金沢大学病院)の産婦人科医であった打出喜義医師が、卵巣がんの治療のため同病院に入院していた女性(以下、Kさんと言う)の夫(以下、Sさんと言う)から相談を受けたのは、1998年春のことだった。

 のちに金沢地裁判決が認定した診療経過によれば、Kさんは前年の1997年5月に石川県小松市内のレディースクリニックで「子宮筋腫」のため子宮の摘出手術を受けた。その後、食欲不振や体重減少がみられたことから、同年11月ころに別の総合病院を受診したところ、左水腎症にかかり、左尿管下端付近に腫瘤があると指摘された。11月26日、その病院から紹介された金沢大学病院を受診した。診察と病理検査の結果、「子宮頸部断端癌」と診断され、12月2日に入院。同月18日に腫瘍の摘出などを目的に行われた開腹手術で、右の卵巣と膣の断端部に腫瘍が見つかった。膣断端部の腫瘍は、膀胱や周囲の組織との癒着が強く、摘出は不可能と判断され、右の卵巣腫瘍の部分摘出と左の卵巣切除が行われた。術後の病理検査で、右卵巣と膣断端部の腫瘍はともに「粘液性腺癌」とわかったが、どちらが原発がんでどちらが転移がんなのか、あるいは双方が同時に発生した重複がんなのかは確定できなかった。がんを完全には切除できなかったため、年が明けた1998年1月から抗がん剤による治療を続けていた。

 Sさんは、打出医師の義弟(妹の夫)の友人だった。

 「抗がん剤の副作用があまりにひどい。なんとかならないか」

 打出医師の診療の合間に病院で会ったSさんは、こう訴えた。

 看病のために病院に足繁く通っていたSさんは、副作用に苦しむ妻を見かねて、強い言葉で看護師に訴えることもあった。友人から自分の義兄が大学病院に勤務していると聞き、打出医師との面会を強く希望したのだった。

 Sさんは妻が受けている治療に疑問を抱いていた。「どの患者に対してどの治療方法を実施するかをくじ引きで決めている」という、看護師たちの間の噂話を耳にしていたからである。

 Kさんの病状や治療による苦しみ、看護師たちの噂話について語るSさんの話を聞いた打出医師は、金沢大学病院産婦人科が卵巣がん患者を対象に行っていた、抗がん剤の比較臨床試験の被験者になっているのではないか、と思った。当時、金沢大学病院産婦人科の講師だった打出医師は、妊娠、出産にかかわる周産期医療が専門で、婦人科腫瘍は専門外だったが、同じ産婦人科に所属する医師たちが臨床試験を行っていたことは知っていた。臨床試験を行う際には患者に十分な説明をしたうえ、書面で同意を得るのは当然と思っていた打出医師は、臨床試験について説明すら受けていないというSさんの話が信じられなかった。

 打出医師は、Kさんが臨床試験の被験者になっているかどうか確認することにした。当直の日、この臨床試験を担当していた医師(以下、A医師と言う)のファイルを開いて見た。産婦人科の医局の大部屋で、打出医師とA医師の机はすぐ近くにあり、ファイルはA医師の机の後ろの本棚に収めてあったという。

 ファイルの中には、被験者となっている患者一人ひとりについて年齢や被験者となる条件を満たしているかどうかなどを記載したものと、すべての被験者の名前、年齢、病院名、担当医師名などを一覧表にした2種類の「症例登録票」があった。イニシャルや名字などから、Kさんのものと思われる症例登録票もあった。ファイルの中には、臨床試験の実施計画書であるプロトコールも入っていたという。

金沢大学病院で行われた臨床試験のプロトコール。「高用量のCAPとCP療法で無作為比較試験をする」と明記されている。
 プロトコールには臨床試験の目的として、「卵巣癌の最適な治療法を確立するために、Ⅱ期以上の症例を対象として、今回高用量のCAP療法とCP療法で無作為比較試験をすることにより、患者の長期予後の改善における有用性を検討する」ことと、「あわせて高用量の化学療法におけるG-CSFの臨床的有用性についても検討する」と書かれていた。

 CAP療法はシスプラチン、シクロホスファミド、アドリアマイシンの3種類の抗がん剤を併用する治療法である。一方、CP療法は副作用軽減のためにCAP療法からアドリアマイシンを除いた2種類の抗がん剤を用いる治療法である。これら二つは当時すでに卵巣がんに対する標準的な治療法だった。また、G-CSFは抗がん剤治療に伴って減少する白血球を増加させる薬剤である。

 症例登録票とプロトコールを見た打出医師はナースステーションに行き、Kさんのカルテを見た。そして、症例登録票に記載されていた通り、KさんにCP療法が行われていることを確認したが、臨床試験の被験者になることを承諾した同意書は見当たらなかった。

 婦人科腫瘍が専門でなかった打出医師はこのとき、「高用量」のCP療法による副作用がどの程度のものか実感はできなかった。しかし、臨床試験の被験者になることについて患者が説明も受けず、しかも「高用量」の抗がん剤が使われていることには疑問を抱き、「重大な問題だ」と思った。その一方で、臨床試験を実施している医師たちと同じ教室、診療科に所属する者としてどう対処したらよいかわからず、困惑してしまった。

 Kさんが被験者になっていることを確認してからしばらくして、Sさんから「治療方法のくじびきの件を調べた結果はどうでしたか」と聞かれた打出医師は、まだ調べていないとは言えず、そうかといって「何の問題もなかった」と噓をつくわけにもいかず、Kさんが同意書もないまま被験者になっていることや、「高用量」の抗がん剤が投与されていることをSさんに告げた。もともと治療に対する疑念があったSさんは、「高用量であれば標準的な治療より副作用が強く出るはず。なぜ標準治療をしてくれないのか」と、金沢大学病院への不信感を強めた。夫から説明を受けたKさんも同じだった。

 Kさんに対する抗がん剤の併用療法(CP療法)は1998年1月20日に開始されていた。プロトコールによると、投与スケジュールは、1日目にシスプラチンを体表面積1平方メートル当たり90ミリグラムとシクロホスファミドを同じく500ミリグラム投与し、5日目にシクロホスファミドを同500ミリグラム投与するというやり方で、投与周期は原則として3~4週間ごとに8サイクル行うことになっていた。しかし、Kさんに腎機能障害がみられ、腎毒性のあるシスプラチンの使用継続によって腎機能障害が悪化する心配があったことと、腫瘍が増大傾向を示していてCP療法が効果を上げていないと考えられたことから、CP療法は1サイクルで中止された。

 この間、Kさんに発生した副作用は約3週間にわたって続いた38度台の高熱、舌の発赤と痛み、吐き気、下痢、腹部の膨満感、腰背部の痛み、脱毛などで、腹水からは真菌

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