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違いを越えて「異国」に赴くということ:大阪、ロンドン、国際仲裁

矢野 雅裕

「異国」に赴くということ:大阪、ロンドン、国際仲裁

 

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
矢野 雅裕

矢野 雅裕(やの・まさひろ)
 2003年、東京大学法学部卒業。同年4月から2007年3月まで財務省勤務。2010年、東京大学法科大学院を修了後、2011年に弁護士登録、緒方法律事務所に入所。2015年7月、アンダーソン・毛利・友常法律事務所に入所。2017年9月、英国Queen Mary University of London(LL.M)に留学。ロンドンのHerbert Smith Freehills法律事務所での勤務を経て、2019年2月、現事務所に復帰。

1.大阪

 午前6時前、雨戸を閉めた薄暗い部屋の中、横に並んだ布団から妻が静かに起き上がる。川の字になって寝ている娘を起こさないよう、物音を立てずに妻は寝室から出ていく。1歳の娘は寝起きの際に妻が横にいないと大泣きをする。そんなときの娘に、私は無力である。抱っこをしても「イヤイヤ」と全身をよじりながら泣き続ける。生後8か月までの間、娘と離れて暮らしていたことからすれば、当たり前の反応かもしれない。

 私は、現在、大阪近郊の妻の両親宅に同居させてもらっている。東京から引っ越して1年半になる5歳の息子は、流暢に関西弁を話すようになった。「嫌や。歯磨きなんて今日は絶対にせーへん。」と逃げる息子は、自分の言葉が標準語から関西弁に変わったことに気づいてもいない。子供の能力と幼稚園の影響にはいつも驚かされる。一方、横浜出身の私には、関西弁は30歳を過ぎてから学んだ「外国語」である。1年間の大阪修習のおかげか、ある程度の関西弁を話せるようになったが、ネイティブ(関西人)には10分もすればまがい物と見破られてしまう。

 そんな息子が学んだものは関西弁だけではない。ある日、息子がくまのプーさんの絵本を幼稚園から借りてきた。東京に住んでいた頃、息子はくまのプーさんのアニメをよく見ていた。借りてきた本を妻が読んで聞かせると、息子がぼそっと「落ち無いな」(話の落ちがない)と呟いた。関西出身の妻は、そんな息子を「せやなあ、落ち無いことに気付くなんて凄いなあ。」と褒める。こうして息子は、すくすく関西人として育っていく。そのうち、テレビで吉本新喜劇を見始めるのだろう。

 またある日の朝、いつものように妻とともに娘を保育園に送りにきたところ、鞄を手渡す際の弾みで、私は思わず左肩を脱臼してしまった。左肩には高校生の頃からの脱臼癖があり、既に20回近くは外れている。暫く痛みに耐えていたところ、幸いにも左肩が自然と元の位置に戻り、激しい痛みも収まった。私の脱臼癖を知っている妻は、あきれたように「なんやったん、今のは。一人で大騒ぎしてたけど。」と冷たい。その夜、妻の母にその話をしたところ、義母は、心配したよと一通り述べた後、「けど、お客さんにもその話、ちゃんとするんやで。腕は良いけど肩が弱い弁護士ですって。そういうの、みんな好きやから。」と諭す。

 大阪、私にとって、ここは日本の中の「異国」である。

2.ロンドン

 娘が生まれる約8か月前、37歳の私は、周りと比べて遅い留学のために単身でロンドンに渡った。

 ヒースロー空港から大学の寮の最寄り駅まで、日本の地下鉄とは比べ物にならないぐらいに揺れるTube(ロンドンの地下鉄)に乗っている間、私は初めての海外生活への不安を感じていた。東ロンドンの最寄り駅に着いてから、長屋のような低い煉瓦造りの家が脇に連なる道を、スーツケースを引きながら寮へ向かうと、ここが日本ではないことが映像として飛び込んできた。石畳のでこぼこ道、薄暗い街灯、パブの外でビールを飲む人々、英語の標識、そして遠くに見えるシティ(金融街)の高層ビル、目に入るすべてが「異国」であった。

 次の日、近くのスーパーに行くと、並ぶ商品の表示はすべて英語である。洗剤の場所を聞こうにも、とっさに洗剤の英単語(detergent)が出てこない。何とか身の回り品をかごにまとめてレジに行くと、そこには見たことのないセルフレジの機械が並んでいた。使い方が分からずにまごついていると若い店員が寄って来てくれた。しかし、彼が何を話しているのかが分からない。聞いたことのないアクセントで話している(ように聞こえる)。当初は店員から話しかけられることにすら怯えていた。

 留学先(Queen Mary University of London)では週4コマしか授業がなく、物理的には自由な時間が多かった。当初は物珍しさもあって市内観光もしたが、授業が始まると毎回指定される文献が全く読み終わらない。何より、テレビ電話先の息子からは「お父さん、お勉強、頑張ってね。」(当時、息子は標準語を話していた。)と言われる。こうして、大学の図書館や街中のカフェを梯子して朝から晩まで指定文献を読む毎日が始まった。カフェで過ごす時間が増え、店員とも打ち解けて話す機会が増えたことで、earl grey(紅茶)の発音が少々通じなかったとしても堂々としていられるようになった(最後まで完璧とはならなかった。)。

 卒論を提出してからは、それまでの東ロンドンと全く雰囲気の異なる西ロンドンに引っ越した。「下町的」と称される東ロンドンと比べて、西ロンドンは日本で一般的にイメージされるロンドンの雰囲気に近く、日本人を目にすることも多かった。そんな西ロンドンでは、幸いにも、映画「Notting Hill」(邦題「ノッティングヒルの恋人」、1999年、ロジャー・ミッチェル監督)の舞台の近くにホームステイをする機会を得た。家の造りや街の雰囲気は映画のままであった。映画の中で主人公が住んでいた家(青いドア)の前には、ひっきりなしに観光客が訪れていた。そんなホームステイ先では、家主の好意でクリスマスパーティーにも参加させてもらった。火が灯る暖炉の脇には天井まで届く大きなクリスマスツリーが備えられ、前日から準備した大量の料理とともに、招かれた多数のゲストと靴を履いたまま室内で立食の懇談をし、最後に皆がクリスマスキャロルを歌う。そして、クリスマス当日の12月25日には市内のすべての公共交通機関が止まった。

 ロンドン、私にとって、そこは何もかもが「異国」であった。

3.留学(国際仲裁)

 留学先であるQueen Maryでの授業は10月に始まった。Queen MaryのLLMプログラムでは、学生が専門分野を指定して入学することが多く、私の指定分野(Comparative and International Dispute Resolution)には、40近い国・地域から100人を超える学生が参加していた。私を含め、そのほとんどが国際仲裁を学ぶことを目的としていた。留学前、日本の訴訟弁護士であった私にとって、国際仲裁は「異国」であった。国際仲裁では、当事者や仲裁人がいずれも異なる国・法域の出身となることが珍しくない。common law(判例法)やcivil law(大陸法)という出身法域の違いを踏まえつつ、どのように紛争解決手続きを前に進めていくのか、そのような国際仲裁の根幹となる部分について、留学前の私は今一つ実感が持てなかった。

 9月末に行われたイントロでは、仲裁人としても活動するギリシャ出身の教授が、参加学生の多様性が国際仲裁を理解するために非常に重要だと繰り返し説明していた。その言葉の意味は、授業が始まるとすぐに実感することになった。ある日の授業では、教授が、国際仲裁に関するイングランド、アメリカ、フランスの裁判例を説明し、仮想事例(ドイツ企業とベトナム企業によるサウジアラビアでの合弁事業から生じた紛争がロンドンでの国際仲裁に付託された事例)について質問すると、真っ先に手を挙げて意見を述べるのはロシア、インド出身の学生であり、それに対してアルゼンチン、ポルトガル、スイス、フランス、キルギスタン出身の学生が意見を述べる。それらのやりとりから、国際仲裁では、どれか一つの国の法制度や実務を正解とできないことが共有されていく。それを見計らった教授が、自らの経験や見解とともにGlobal Standardとされる実務のあり方を説明して授業を進めていく。このようなQueen Maryでの授業は、出身法域の多様さを反映した国際仲裁の手続きの進め方、考え方を繰り返し体験するようなものであった。国際仲裁はすべての参加者にとって「異国」の手続きである、卒業までにそのように実感するようになった。

 ロンドンでは、国際仲裁に関する仲裁実務家向けイベントにも数多く参加した。イベント主催者は法律事務所、仲裁機関、大学など様々だが、パネルディスカッションや講演の後には、イベント参加者がホールなどでグラス片手に立ったまま懇談することが通例だった。この懇談はnetworking event/drinkと呼ばれ、知人同士の情報交換だけではなく、仲裁実務家の間で新たな人的繋がりを構築する(networking)ための重要な場となっていた。このnetworking、実際に行うとなるとなかなかに大変である。面識のない仲裁実務家に話しかけ、共通の話題も分からないままに自己紹介を交わし、相手の反応に応じて会話を続けていかなければならない。現地の弁護士ですらこれを億劫に感じることがあるなかで、英語での会話に自信のなかった私は余計に震えながらnetworkingに挑戦した。総じて、仲裁人も務める著名な仲裁実務家達は非常に好意的で、自らの体験を踏まえた貴重なアドバイスをくれることが多かった。その中でも特に印象的であったのは、Global Standardの手続きを理解した先で必要となるのは、出身法域の違いを超えて、代理人としていかに仲裁人を説得していくかである、ということだった。どのようなストーリーをどのような証拠とともに提示するのか、その点では国際仲裁と訴訟に異なるところはなく、訴訟弁護士の経験は国際仲裁の場でも十分に活かしうる、そのようにアドバイスされることが多かった。

 国際仲裁、私にとって、それは近づきうる「異国」であった。

4.おわりに

 私の歩みは、ここに挙げた3つの「異国」によって彩られている。ロンドンで留学・研修し、そこから大阪に移り住み、そして大阪オフィスで国際仲裁関連の案件にも関与している。

 今後、さらなる「異国」が待っているのかは予想もつかないが、「異国」へ赴く際の私の心の持ち様として、ロンドンを舞台とした映画「About Time」(邦題「アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜」、2013年、リチャード・カーティス監督)の主人公(タイムトラベルの能力を持つ法廷弁護士の役柄)のセリフを引用して最後としたい。

 “We're all travelling through time together every day of our lives. All we can do is do our best to relish this remarkable ride.”