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これはまだ「プロローグ」にすぎない

宇野常寛

宇野常寛 宇野常寛(批評家)

 村上春樹『1Q84』のBOOK4はあるのか。結論から述べれば、私は「ある」と考えている。理由はいくつもある。物語が現時点では中途半端になってしまうこと、BOOK3の評論化筋の評価が芳しくないために挽回が必要なこと、春樹自身がインタビューで続編の可能性を臭わせていることなどが挙げられるが、まあ、こういう「推理」自体には価値はない。ここで重要なのはこの小説は文学的にまだ「終われない」ということだ。

 エルサレム賞受賞演説が象徴的だが、ここ十数年間春樹の文学のテーマは一貫して「暴力」だった。「壁」(システム)と「卵」(人間)の対立を前提に、後者の側に立つと同演説で春樹は宣言した。ここで春樹が仮想敵にしているのは壁=システムの生む暴力だ。それはかつての国家権力批判や資本主義批判とは当然一線を画している。『1Q84』に登場するビッグ・ブラザー(オーウェル)とリトル・ピープル(オブライエン)の対比は、この「壁」=システムの変化を表現している。スターリニズムに代表されるイデオロギッシュな権力の暴力から、連合赤軍からオウム真理教にいたるポストモダン的なアイデンティティ不安が生むカルトな暴力へ、「壁」の生む暴力は変化したのだ。この比喩からも明らかように『1Q84』はこうした新しい暴力性と対峙し「卵」の側につくべく書かれた小説だが既刊3冊の中でこれらの問題は十二分に展開されたとは言えない。リトル・ピープルという現代における「壁」の存在をめぐる物語はほとんど追求されず、暴力の問題は中途半端に放置されている。

 では、既刊の3冊では何が描かれていたのか。それは言ってみれば本題に入る前の「前準備」だ。

 BOOK3までの3冊は、主人公の天吾が父(春樹作品では常に「壁」=システムの生む暴力性の象徴として登場する)と和解し、その死を見取り、自らが劇中で発生する「奇跡」によって父となっていくまでを描いている。自らも「壁」として機能する=象徴的な「父」になってしまうことの不可避――この認識にたどりついたということは現代における暴力の問題を扱う上で、ようやくスタートラインに立ったといっていい。現代においてシステムと人間、壁と卵は不可分であり、誰もが否応なく象徴的な「父」として機能してしまうのだ。

 春樹は先日インタビューに答え、『1Q84』執筆の背景に2001年のアメリカ同時多発テロの存在があることを明かした。テロとその報復戦争、さらにその報復テロの連鎖、あるいは世界中で多発している民族紛争――現代における暴力の問題はビッグ・ブラザー(大きな父)の抑圧とそれに対する反抗ではなく、リトル・ピープル(小さな父たち)同士の抗争の無限連鎖として表出している。

 春樹が三冊分をかけて紡いだ「父なること」を受け入れるための物語は、現代における暴力の問題を扱うための長い長い前準備だったのかもしれない。「父」になることへのためらいこそが、春樹の文学をこれまで支えてきたことは疑いようがない。だからこそ、春樹が新しい問題を扱うための新しい文学を獲得するためにはこれだけの分量が必要だったのではないか……と期待を込め、最大限に好意的な表現をここでは選択しようと思う。

 『1Q84』のBOOK4はおそらく、ある。いや、あるべきなのだと思う。春樹が新しい文学を、それも世界視点で獲得しようと思うのなら。

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