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ネットカンニングから透かし見る大学の構造的問題

本田由紀

本田由紀 本田由紀(東大教授)

今回のネットカンニングについては、試験会場での座席の位置やどうやって携帯電話を操作したか、さらには家庭背景なども含め、ひとしきり事実関係が報道されただけでなく、朝日新聞紙上でも3月5日のオピニオン欄、3月7日の教育面での山上浩二郎氏の署名記事などで様々な角度から議論がなされている。より巧妙で組織的なやり方でこれまでも行われていた可能性や、大学側の責任、伝統的な入学試験の方法そのものが時代遅れである側面など、主な論点はほぼ出尽くした感があるが、以下には私が気になっている点をいくつか述べておこう。

 まずひとつは、ネットカンニングをした若者は、高校3年時に父親を亡くしたショックで受験に失敗し、1年間予備校の寮に入って勉強した果てに、これ以上母親に金銭的に負担をかけずに「いい大学」に入って安心させたいという切羽詰った動機から、今回の行為に及んでいるということである。浪人するにも、その後に大学に入るにも、大きな経済的負担を要するということ、そしてかかった負担が大学卒業後の仕事によって回収されうる確率の高低がどれほど選抜度の高い大学に入ったかによって大きく影響されるということが、この事件の社会的背景となっている。こうした背景が突きつけてくる無理や矛盾は、通常は個々の家族の経済的努力や受験者自身の「学力」水準によるクールダウンなどによって何とかやりくりされている。しかし今回の場合は、やりくりすることを難しくさせる諸要因がその若者に集中していたことが、ネットカンニングという稚拙な行為に走らせる結果を生んでいた。そのように家計や個人を経済的に強く圧迫し、しかもそれが後で報われるかどうかも不透明な大学のあり方自体がもつ問題性について、もっと関心が寄せられてしかるべきだったと考える。

 また、もうひとつの背景として、日本の大学では入学試験さえ突破してしまえば後の大学教育で課される要求水準は往々にして高くないということがある。教育機関であれ企業であれ、組織の内外を区分する線がきわめて太く、その組織にメンバーとして入れるかどうかが重要な「身分」の違いを生み出すということが、入り口での選抜に過度の圧力をもたらしている。ただし、

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