後藤正治
2011年04月06日
阪神大震災のときは、直後に被災地に入り、折々に現地を歩いてきた。そのときの縁で、いまもお付き合いをさせていただいている人もいる。
当時、神戸市内のアパートで下宿していた大学生の息子を圧死によって失った母がいる。彼女は悲嘆の底をさまよう年月を送ってきた。いまもそうであり、これからもそうなのだと思う。時間は悲しみを癒してはくれるが癒し切ることはない。そのことは東日本各地で生まれた万を超える死者・行方不明者の家族においてもきっと同じであろう。
阪神・魚崎地区は全壊・全焼を受けた。零細な小売店を営む高齢の人々が多かったが、自宅兼用の店を再建できたのは半数に満たない。生活再建の困難さもまた重なろう。
このたびは原発破壊による放射能汚染が加わった。破滅的な被災は回避されたようであるが、見えない傷はじくじくとうずき続けている。
このような万が一の事態は、警告としては耳にしていた。ただ、聞きたくない、見たくないものとして意識の外に放り出してきた。それが現実となって立ちすくんでいるのである。
政府の危機管理に手落ちがあった、東電の対応がケシカラン……というのはその通りだ。けれども
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