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教育現場の復興はより柔軟な発想で

西岡研介

西岡研介 フリーランスライター

「皆さんに謝らなければならないことがあります。本当ならこの後、新しい教室に分かれ、新しい友達と、今年の夢や目標を語り合い、明日からの新学期を始めるはずでした。しかし、今年はそれができません。いろいろな事情があって、皆さんにお勉強できる環境が整えられなかったこと、大人の代表として謝ります。ごめんなさい……」

 4月21日、「石巻市立湊小学校」(石巻市吉野町)で行なわれた始業式で、同校の佐々木丈二校長は目の前の子供たちに頭を下げた。

 この日、湊小の体育館では、津波で校舎の1階が水没した近隣の「湊第二小学校」との合同始業式が行なわれ、両校合わせて約270人の児童が出席した。

 今後、両校は湊小の校舎を使って授業を行ないたい――としているが、同校の校舎2~4階の教室には今も周辺住民約300人(21日現在)が地域ごとに分かれて暮らしている。

 始業式が行なわれた21日も、体育館の後ろのほうでは、ボランティアが炊き出しの準備を行い、式の間も体育館には、香ばしいカレーの匂いが立ち込めていた。

 宮城県教委は、震災発生から8日後の3月19日、県立の中学・高校の新学期の始業を「4月21日」とする方針を明らかにした。この県教委の方針に対し、教育現場は「学校機能は麻痺しており、長期化が予想される。(始業は)せめて5月の連休空けに延期すべき」と反発した。

 さらに県教委が「従来通り4月1日付で教職員の異動を行う」としたことに対しても、県議会など「児童生徒や教職員の多くがまだ行方不明なのに、なぜ異動を強行するのか」との批判が噴出。津波で大きな被害を受け、教育長が行方不明になっている南三陸町の佐藤仁町長も県議会に対し、異動凍結を求める要望書を提出していた。

 しかし最終的には、これらの県教委の方針に仙台市などの市町も足並みを揃え、石巻市でも4月21日から22日にかけて市立小中学校で始業式が行なわれた。しかし市内64の小中学校のうち15校では、今も住民が避難生活を送っている。

 21日からの始業に先立ち石巻市では4月15日、避難所となっている市内15の小中学校に職員が出向き、避難住民に対し、教室から体育館や別の避難所への移動を要請したが、「説明が唐突すぎる」、「教室をすべて明け渡さなくても授業はできるではないか」などと住民の猛反発を受け、方針を撤回。大型連休までの移転を求めたが、進んでいないのが現状だ。

 このニュースを聞いた読者の中には「別の避難所に移れというならともかく、同じ学校の校舎から体育館に移転するのに、住民はなぜ、それほどまでに抵抗するのか」という疑問を抱かれた人も少なくないだろう。

 しかし津波の難から逃れ、九死に一生を得た、あるいは自宅の1階部分が浸水したため学校に避難している住民にとって、校舎の2階以上にある教室から、一度は浸水した平屋の体育館に移れという要請は、再び津波の恐怖に晒されることを意味する。

 その一方で、実際に被災地の避難所を回ると、1カ月以上に及ぶ避難生活で、大人だけでなく、子供たちのストレスもピークに達していることがよく分かる。その子供たちに対する最大のケアが、親しい友人や先生たちと再会し、共に過ごすことであることは論を待たない。よって、「1日も早く学校を再開し、子供たちに『日常』を取り戻してあげたい」という宮城県教委や石巻市教委の考えも理解できる。が、被災地の教育機関や行政はもっと頭を柔らかくして、現状に臨んだほうがいいのではないか。

 実際、前述の湊小学校では21日に始業式を行ったものの、教室に避難者がいることに配慮して25日から再び1週間、臨時休校とし、5月以降の授業再開の目途は立っていない。

 冒頭の始業式の後、私は、「大人の代表として」謝罪した佐々木校長にさらなる胸の内を聞かせてもらいたいと声をかけた。私の問いかけに対し、校長は一瞬、言葉を詰まらせると、苦しげな表情を浮かべながら、こう言った。

「申し訳ございませんが、斟酌して下さい。ただ(子供たちに謝罪したという事実は)事実として書いていただいてかまいませんので……」

 宮城県教委の杓子定規な考え方が、教育現場に混乱を引き起こしている――とまで言うつもりはない。しかし

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