メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

彼ら・彼女らの志をくじけさせるな

本田由紀

本田由紀 本田由紀(東大教授)

周知のように、東日本大震災の甚大な被害は被災地の多くの子どもたちにも及んでいる。津波で家が流され避難所で生活している子どもたち、これまで住んでいた場所を遠く離れて新たな生活を始めなければならない子どもたち、学校が避難所となっているため学習に支障が出ている子どもたち、家族・親族を亡くしたり保護者が仕事を失ったりしたことで生活が脅かされている子どもたちは、膨大な数に及ぶ。そのような子どもたちに対して、定住できる住居やしっかりした学習環境を一刻も早く整えるとともに、彼らが感じている多大な悲しみや苦しみを少しでも軽減するような心理的ケアが必要であることは言うまでもない。しかし、実際にはそうした基礎的な支援さえ滞りがちであることに心が痛い。

 そのような段階で、子どもたちに対して震災以前よりもさらに拡充された諸施策を要望することは非現実的と非難されるかもしれない。しかし私は、震災後のこの社会を立て直してゆくためにも、被災した子どもたちはもちろん、より広い範囲のすべての子どもたちが、明るさのある展望を抱くことを可能にするための手立てが必要だと思うのだ。

 そのように思う理由は、3.11後に様々な媒体で報告されてきた子どもたち自身の声の中にある。たとえば朝日新聞が震災の直後から連日掲載してきた〈いま伝えたい 被災者の声〉の中には、子どもや若者の発言も少なからず含まれている。それらの中ではもちろん、失われた生活への郷愁や、学校に行きたい、スポーツや遊びをしたいといった願いが多く語られているのだが、それに加えて度々見出されるのが、自分の将来への志に関する発言である。いくつか例をあげよう(以下、下線は筆者による)。

 ◆県立山田高校3年甲斐谷美沙樹さん(17)「来年は受験なので不安です。家も教科書も参考書も全部津波で流されました。学校の英数国のプリントだけで、段ボールを机に勉強してます。小さい子たちがちょっかいを出すので集中できないけど、実は結構楽しい。ここでは配膳や湯沸かし、調理などのボランティアをしています。人の役に立つ仕事、看護師か調理師になりたい気持ちが強くなりました。夢に向かって頑張って勉強します!」

 ◆福島県浪江町立幾世橋小学校3年佐藤希さん(8)と田辺壮太君(9)「2人で避難所から三条市立三条小に通い始めました。人数は少ないけど、みんな優しくしてくれて、いい学校です。幾世橋小のみんな、どこにいますか。お元気ですか。浪江に新しい幼稚園を建てて先生になりたい」(佐藤さん)、「漁船は津波で流されたし、車も置いてきたからもう帰れないかもしれないけど、新潟で新しい船を造って、父ちゃんみたいな漁師になるよ」(田辺君)

 ◆南相馬市原町区、小学3年糸井茄津さん(8)「苦しかったのはこの1カ月、体育館で暮らしたこと。寝るときに誰かが歩いてドンドンするし。将来は政治家になって安心できる社会をつくりたい

 ◆宮古市田老野原、下西優希さん(18)「津波で家を流され、家族7人で避難所で暮らしています。最初の頃より、物資も十分で、暖かく、快適に暮らせるようになりました。将来の夢は看護師。震災でその気持ちが一層強くなりました。今月25日からは宮城県気仙沼市の看護専門学校に通います」

 ◆山田町、県立山田高校3年武藤弘憲さん(17)「自宅の被害はなかったけれど、老人ホームに入っていた祖父が亡くなってしまった。人手が足りないだろうと思い、震災の翌日から小学校に寝泊まりして、物資の搬入や掃除を手伝っています。育った町はひどい状態になってしまったけど、避難所の子どもたちの顔は明るく、元気をもらっている。将来はこの町の復興の役に立てるような職業に就きたい

 ◆大槌町立大槌中学校3年瀧野淳君(15)「卒業式の前日に家が流されてしまった。帰る場所がなく風呂にも一度も入っていないけれど、避難所には友人もたくさんいてけっこう心強い。春からは高校生になるが、どうなるのか不安がある。今回の震災でこの町の役に立つ仕事がしたいと強く思った。将来は警察官になりたい

 ◆大槌町、県立釜石高校2年佐藤太地さん(16)「避難所になっている安渡小の卒業生たち5人で、安渡青年協力隊というのを作ったんです。『ANDO(安渡)YOUNG COOPERATION PARTY』で、略称はAYCP。響きが格好いいかなって。校舎のぞうきんがけや物資の運搬、炊事の手伝いをしています

 以上に挙げた例に見られるのは、地域や自分の周囲の現状を見据えた上で、その復興に具体的な貢献をしてゆきたいという積極的な意志である。最後の例では、すでに仲間たちと実際の行動を始めている。

 震災は、多くの子どもや若者たちを、剥き出しの生々しい現実―それは悲惨というしかないものであったが―に投げ出す結果になった。しかし、少なくとも上記の例を見る限り、それは彼ら・彼女らにとって、絶望ではなく、自分が生きていることの意味、自分と社会との関わりを実感させ、悲惨を悲惨でなくしてゆくために自分が実質的な力を発揮してゆきたいという方向に向かわせるものだった。

 そのような例は他にも数々見出される。これまでひきこもっていた若者が地域のために動き出した例。あるいは、以下のような報告もある。

 「俺、自衛隊に入る」

 ポツリと小学生が言った。なぜ? と聞くと、次のようなことだった。

 津波にのまれた父親が帰って来るのではないかと毎日、ずっと海を見つめていたところ、若い自衛官に声を掛けられた。理由を話すと、その自衛官は何も言わずに肩に手を置いて、しばらくの間、一緒に海を見てくれたのだという。」

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110418/dms1104181141002-n1.htm

 このような子ども、若者の様子を見る限り、震災がなかった状況下における子どもや若者を取り巻く環境の方が、ある意味でいびつにシステム化され、リアリティを欠落させたものだったのではないかとさえ思わせる。子どもや若者に「職業観」や「意欲」を植え付けるための施策として盛んに奨励されてきた「キャリア教育」などよりも、剥き出しの現実がもつ教育力の方がはるかに勝っていたと言うべきか。

 今必要なのは、新たに芽生えた彼らの志をくじけさせることなく、力強く伸ばしてゆけるような道筋の整備である。そこには当然、教育や仕事のあり方が含まれる。形式的な選別や管理、あるいは組織や集団への同調圧力が色濃く残る教育ではなく、社会が必要とする各領域の専門的な力量を、多様な人々との切磋琢磨をも通じてきちんと形成する教育。過重労働や不安定雇用で働く者を使い捨てるのではなく、個々人の知識や技能を尊重し適正な処遇で報いる働き方。それらを用意することが、若い層に幾多の負債を残してしまった年長者の務めではないだろうか。

・・・ログインして読む
(残り:約45文字/本文:約2883文字)