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被災地から国連へ

大久保真紀

大久保真紀 朝日新聞編集委員(社会担当)

8月に、被災地の高校生2人がスイスにある国連欧州本部を訪ねます。

 岩手県立高田高校3年生の菊地将大(まさひろ)さん(17)と2年生の佐々木沙耶さん(16)です。被爆地・長崎の市民団体が、核兵器の廃絶と平和な世界の実現を訴えるために、1988年から毎年国連に送り出してきた「高校生平和大使」に選ばれました。今年の平和大使12人の一員として国連に赴きます。2人はスピーチをすることになっていて、被災地の現状と被災地への国際的な支援への感謝を伝えるそうです。

 菊地さんについては、7月30日付け朝刊の「ひと」欄に紹介させていただきました。ここでは主に、佐々木さんについてお伝えします。

 菊地さんはあの津波でご両親を亡くしました。一方、佐々木さんは自宅が流されました。

菊地将大さん

 あの日、佐々木さんは、自宅の2階でひとりテレビを見ていました。突然の揺れに、倒れそうになった棚を必死で押さえました。本は棚から床にばさばさと落ちました。

 佐々木さんは家族の帰りを待ちます。父親の芳勝さん(54)は郵便局の配達員、母親の淳子(あつこ)さん(50)は薬局の店員です。一緒に暮らす祖母の芳子さん(85)は地区の会合に出かけていました。兄の遼介さん(18)は高田高校にいたそうです。

 まずは父の芳勝さんが、そして、兄、母、祖母の順番で帰ってきました。母は一度職場の薬局に戻りましたが、またすぐに帰ってきたそうです。それから全員で、近くの小学校に避難しました。自宅まで津波が来るとは思っていませんでしたが、近所の人が避難していたので、「じゃあ、うちも」という感じで、小学校に逃げたそうです。

 大津波警報が出ていると聞いたので、解除されるまでは校庭にいようと思っていたそうです。「車が渋滞しているなあ」と道路を見ていた佐々木さんに、近くにいた男性の声が届きます。「津波が来た!」。振り返ってみると、あちこちの家が動いていました。そして、砂煙。波は見えませんでした。

とにかく逃げなくてはと、みなで校庭から階段を上って校舎に移動しました。振り返ると、まだ波が迫ってきます。祖母を抱えて、校舎裏の道路に出て、さらに少し高いところに避難しました。佐々木さんは「ほとんどパニックになっていた」と振り返ります。

 すぐに帰れると思っていたので、もってきたのは携帯電話だけでしたが、そのまま、家族で、高台にある親類の家に避難しました。

 1週間ぐらいして、父の芳勝さんが、自宅周辺に行きました。しかし、残っていたのは自宅の床だけ。1階も2階もどこにもありませんでした。芳勝さんが携帯電話で撮影した写真を見ると、本当に何もありませんでした。「自分の家だけなかったらショックだったかもしれないけれど、みんな流されていたので……」と佐々木さんは言います。

 でも、小さいときの写真がなくなったのは、残念でなりません。お気に入りの洋服も全部流されました。いま着ている制服は、先輩からもらったものです。支援物資や、それと一緒に届くメッセージカードを見ると、日本や世界の人たちから助けられている、と強く感じるそうです。

 佐々木さんは、自宅から歩いて15分かからないからと、高田高校への進学を決めました。移動時間が短いから、そのぶん勉強に充てられると考えたのです。しかし、校舎が被災し、高田高校は隣の大船渡市にある大船渡東高校の萱中校舎に間借りをしています。いまはバスで30分かけて通っています。

佐々木沙耶さん

 国連欧州本部では、実際に体験したことを世界の人に知ってもらいたいと考えています。「これ以上犠牲者を出したくない。今回の震災のことを忘れないで、これから防災意識をもって生活していきたい」と訴えようと思っています。

 先日、長崎であった結団式に参加して、刺激を受けたそうです。「私は核兵器廃絶なんて考えていなかった。でも、九州の高校生たちは小さいときからいろんなことを学んでいた。世界平和への意識が高く、自分の意思が強いと感じた」と佐々木さんは言います。佐々木さんは8月7~9日には長崎を訪れます。「平和集会をしっかり見てみたい」と考えています。

 佐々木さんは、菊地さんの後任の高田高校の生徒会長です。先日開かれた体育祭は、

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