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被爆者への理解不足がうむ過剰な被曝忌避

武田徹 評論家

先日、福島の原発事故をめぐって独誌デア・シュピーゲルの取材を受けた。記者が繰り返し尋ねたのが、日本人はヒロシマ、ナガサキで被爆体験をしているのに、なぜ「原発大国」への道を歩み、事故による被曝を経験するまでに至ってしまったのか、ということだった。海外から見ると、それが不思議でならないようだ。

 しかし実際には被爆体験があってこそ、戦後日本は今回の被曝事故への道のりを歩んだ。個人的にはそう考えている。以下にそれを記そう。

●圧倒的な力への畏怖

 今年も広島、長崎で原爆の犠牲者を慰霊し、平和を祈念する式典が開催される。

 第二次大戦を省みる記念日の類は数多くあるが、二つの式典の位置づけは特別だ。たった二発の爆弾が瞬時にして都市を壊滅させ、数十万人を犠牲にした。その追悼の式典は毎年繰り返され、核エネルギーの圧倒的な力を国民的記憶として上書きし続ける。

 こうした被爆の記憶が、原子力発電への願望に転換される逆説が戦後日本史にありえた--。プロセスを辿ればこうなる。核兵器の独占体制が崩れ、更に水爆開発ではソ連に先を越されつつあった米国は、原子力利用技術の提供を行うことで自由主義陣営の結束を強めようとした。いわゆるアイゼンハワーの「アトムズ・フォー・ピース」戦略だ。そのシナリオに最も忠実に従ったのが日本だった。日本人にしてみれば、ヒロシマ、ナガサキを含めて多くの犠牲者を出して終わった戦争が、そもそも開戦に至ったのは日本が資源小国だったからだという歴史認識がある。資源獲得のためにに拡大路線を取って大陸進出したところからコースミスがあったのだ、と。その拡大路線は被爆経験で終わる無残な結果となったが、資源不足の状況は戦後も変わることがない。こうして資源コンプレックスに苛まれる国民にとって、原子力の圧倒的な力はあまりにも魅力的だった。

 ちなみに日本で最初に原子炉関係予算が国会で認められたのは1954年。相前後してヒロシマ、ナガサキに続く三度目の被爆経験としてアメリカの水爆実験で発生した放射性降下物(死の灰)を第五福竜丸乗組員が浴びる事件が発生し、それを契機に国内では大規模な原水爆禁止運動が起きたが、その一方で原子力平和利用は歓迎するという二極分化が進んでいる。被爆国の国民ゆえに核兵器による悲劇の再来を絶対に避けようとするが、一方で平和利用の文脈の中では原子力の「力」の恩恵を借りようともする。原水禁運動の高まりと来るべき原発時代への期待は、核エネルギーを怖れ、しかしその力にあやかろうともする、「畏敬」に近い感情が底流にあって育まれたものだったと言えそうだ。

 やがて原子力発電所の建設計画が具体化すると全国で誘致運動が繰り広げられ、福島県浜通り地区もそこに名乗りを上げる。こうして核の力を思い知らされた国民の深層意識に潜む資源コンプレックスと共鳴するかたちで、戦後日本は原発大国への道を歩み、ついには深刻な原発事故を経験することにもなる。

●万人が万人にとって狼になる

 そして福島原発事故後、目立ったのは放射線被曝を徹底的に避けようとする動きだ。たとえば現在進行中の放射性検査に先駆けて、汚染が懸念される牛肉などの食物をひたすら忌避する傾向がみられる。確かに放射線は人体に悪影響を及ぼしかねないリスク源であり、出来る限り被曝は避けた方が良い。しかし放射線リスクを個々人がゼロにしようと無理すると、他者に別のリスクを押し付けてしまうことがある。水道水に大人の飲料では問題のない線量が検出されただけだったにもかかわらず、多くがペットボトル水の買い占めに走り、それが本当に必要は乳児や妊婦に行き渡らなくなった一件はまだ記憶に新しいが、食物への過剰な忌避も被災した生産者を繰り返し、深く傷つけるだろう。

 こうして被曝の恐怖に駆られて己の身を守ろうとする余り、他者との共生可能性までみすみす手放してしまうほど、私たちが愚かだったとは思いたくない。なにしろ、それでは被爆者たちに辛苦を強いた過ちを繰り返さないというヒロシマの誓いも空しくなってしまうのだから。

 確かに被爆経験は核エネルギーの強さに対して恐れつつ憧れるアンビバレントな国民感情を育み、核廃絶を望みつつ、原子力平和利用を進めさせた。しかし福島の事故後、原子力を制御してその力の恩恵のみを得る可能性への期待は無残に打ち崩され、放射線への恐怖心のみが制御できない形で残った。その意味では原発事故後の、時に過剰に傾くこともある強い被曝忌避の動きもまた

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