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小名浜、いわき、福島の「未来」を手帳に書き込む――東日本大震災・いわきから(4)

小松浩二(フリーライター・編集者、福島県いわき市在住)

震災直後の2011年3月21日、WEBRONZA(ウェブロンザ)に「いわき市小名浜で『家族』『ふるさと』『未来』を考える――東日本大震災・いわきから(2)」を寄稿した小松浩二さん。震災半年後のいわき、福島の人たちはどのような思いでいるのか。

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 この半年の間に自分の身に起きたことを一度整理しようと思い、手帳を開きました。3月12日の欄には、大親友のK君の結婚披露宴の予定が書いてあります。「7:05アクアマリンふくしま発、10:04綾瀬駅着」という手書きのメモ。その高速バスが来ることを、私は、その1日前まで少しも疑っていませんでした。3月11日の昼休みに、お願いされていた乾杯の挨拶を考えていたところでした。親友の人生最大の幸せの瞬間が、次の日に、やってくるはずでした。

永崎海岸。かつてここにあった建物は、鉄筋と基礎がむき出しのままそこに残されている

 手帳には、未来を書き込みます。3月11日の午後2時45分まで、未来とは、当たり前にやってくるものだと思っていました。しかし、そうではなかったのです。故郷いわきの浜辺に打ち上げられた無数の残骸。その中にはきっと、何冊も手帳があったことでしょう。

 そこには、それぞれの未来が書かれていたはずです。実現されることなく黒い波に巻き込まれ、泥に埋もれていった未来のことを考えると、言葉になりません。K君の披露宴は無事に行われました。行けなかったことを、今でも残念に思っています。

 3月21日。このウェブサイトに、私が寄稿した文章が掲載されました。私は文章の中で「未来」を考えました。しかし、実を言うと、いわきや福島の人たちはあれからずっと未来という言葉を失ってしまったのです。

 大筋さえ決まらない復興ビジョン。被災地を振り回す政局。誰も責任を取らずにうやむやになる原発事故。降り積もる放射性物質。時が経てば、一筋の希望のある未来がやってくると考えていたのに、未来は、過酷な現実だけを運んでくるもののように思えました。

波消しブロックは崩れ、砂浜は完全に変わってしまったが、海の美しさは、震災前と何も変わらない永崎海岸の眺望

 5月。緊急に行われたモニタリング検査で、小名浜名産のメヒカリやムラサキウニから、微量のセシウムが検出されました。空気中にも放射性物質が漂っているので、干物も、正直厳しいでしょう。放射性物質は、雨や風を凶器にしてしまうのです。魚市場は、今もまだほとんど機能していません。

 8月末。三陸の被災地より何週間も遅れて、小名浜にもようやくカツオが揚がりました。「よし。カツオも揚がった。水産業や観光業もこっからだ」と、皆が復興への足がかりとなることを期待しました。ところが、それを築地市場に持っていけば、1キロあたり100円しか値がつなかい。期待は裏切られ続けています。

 正直言えば、私はこの数ヶ月、多くの犠牲はあったけれども、日に日に元気を取り戻し、海から復興が始まっていく三陸の港町が心底うらやましかった。小名浜にだって、以前と同じ太陽があり、海は青々と輝き、風は夏を告げているのです。

 でも、実際には、このまがまがしい粒子が、何百年と培ってきた小名浜の食文化や観光資源を奪い、砂浜や水族館から人を遠ざけています。「原発さえなければ……」。どれほど多くの人が、そう思ったでしょうか。

小名浜漁港はいまだに信号が灯っていない。あたりの食堂や土産物屋も、そのほとんどが店を再開できないままだ

 震災後、私たちは、小名浜という名の手帳に、たくさんの未来を書き込んできました。でも、

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