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天皇陛下が訪英にこだわった理由

岩井克己

岩井克己 ジャーナリスト

天皇陛下は、心臓冠動脈バイパス手術からわずか3カ月にもかかわらず、エリザベス女王の即位60周年の催しへの出席に強い意欲を示し、病後の体調を押して皇后さまとともに訪英を果たした。陛下はなぜ、それほどまでに強い意向を貫いたのだろうか――。

 確かに、自然人の「世襲君主」を、国や国民が統合の象徴的存在として維持することの意味のひとつが、歴史を世々代々の「人間」たちの営みとしてとらえ受け継ぐことにあるとすれば、今回のエリザベス英女王の即位60年式典への天皇、皇后両陛下の出席ほど、その感慨を人々に呼び起こすものはないかもしれない。

 英国民の敬愛を集めたジョージ5世の長男エドワード8世が王位を辞退したことで、後を継いだ次男ジョージ6世は、 第二次大戦中のドイツ軍の猛爆下、吃音を克服してマイクの前に立ち国民を励ました。しかし、日本を含む枢軸国との戦いに勝利した後も、国土の荒廃、植民地喪失など英国の困難は続き、ストレスなどから冠動脈血栓症で急逝。その娘エリザベスが、図らずも25歳の若さで即位することになった。

 1953年6月、その戴冠式に、敗戦国・日本から、半年前に立太子礼を挙げたばかりの19歳の明仁皇太子が昭和天皇の名代として参列した。生まれて初めての外国訪問であり、日本の皇室の新世代の国際舞台デビューでもあった。

 アジアで撃破され、捕虜虐待もあった日本と皇室への英国民の反発は強く、明仁皇太子は冷ややかな視線に囲まれたが、チャーチル首相が野党労働党党首やメディア関係者 を招いた昼食会で歓迎のスピーチと天皇に捧げる乾杯の音頭をとるなど温かい配慮を示し、エリザベス女王も競馬観戦を共にするなど歓待した。

 さらにさかのぼれば、明治天皇の時代からの日英同盟に崩壊の気配が漂う1921年、皇太子として欧州を歴訪した昭和天皇は、英国で最大級の歓待を受け、エリザベスの祖父ジョージ5世に「あたかも慈父のように」(昭和天皇)近代立憲君主の心得を説かれたことを終生のよい思い出としていた。太平洋戦争開戦の際には「厚い誼(よしみ)があり、私も外遊の際、歓待されたことのある、その英国と袂(たもと)を別(わか)つのは、実に断腸の思(おもい)がある」と心境を語っていた。そして敗戦後、長男の明仁皇太子にも「象徴学」としてジョージ5世の 伝記を英語で学ばせている。

 同盟、立憲君主制のお手本、戦争、戦後和解……という波乱の歴史の中で、ジョージ5世の孫娘と昭和天皇の長男が、それぞれに国を背負って歩み始める門出の場で出会ってから60年の年月が流れた。

 これまで相互訪問の度に、華やかなページェントや複雑な国民感情とは別に、親戚同士のように互いにファーストネームで呼び合い、家族ぐるみのおつきあいが続いた。それぞれに家庭内の問題で悩みも抱えた。二人の人生の中で、

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