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容疑者の「顔」写真をめぐる神話

武田徹 評論家

 25年以上にわたって数世帯の家族が監禁され、数名が虐殺された。報道されて分かった範囲でも尼崎の事件は確かに前代未聞の異常な犯行だといえる。

 それゆえ、目星をつけた家族を暴力的・精神的に支配し、破滅に至らしめる類まれなる犯行に及んだらしい容疑者の顔をぜひ見てみたいーー。多くの人がそんな願望を抱いただろうことは疑い得ない。

 しかし、事件が発覚してから主犯と思しき女性の顔写真はなかなか報道されなかった。容疑者は写真嫌いで、撮影を徹底して拒否していたという。入手が困難であればなおさら情報価値は高まる。マスコミ各社が貴重な顔写真入手に躍起となっただろうことは想像に難くない。その努力の甲斐あってか10月20日前後から「容疑者女性」の顔写真を各社が掲載するようになった。

 ところが、その写真について果たして本当に容疑者なのかという疑問が寄せられ始める。30日夜には尼崎市内に住む50代の女性が「映っているのは私だ」と名乗り出たことでミスが決定的となった。

 なぜ別人の写真を使ってしまったのか。誤って使われた顔写真は20年近く前に撮影された小学校の入学式の集合写真から切り出したもの。誤報を検証した記事によれば、その写真の提供元は容疑者の長男と同じ学校に通う同級生の母親だったとされている。

 ただし提供者は学校で父兄が揃った集合写真の中の一人を「被告だと思うが記憶があいまい」と説明していたそうだ。そのため写真提供を受けたマスコミ各社も安全を期して別の複数の同級生や彼らの母親らに集合写真を見せて確認をしている。

 こうした写真使用に至る経緯を改めて辿れば、たとえば先日のiPS細胞の誤報事件と違って、メディアの側も誤報の可能性を警戒してウラ取りをしている。ただ同じような手続きを踏んでなお別人の可能性が払拭できないと考え、顔写真の掲載を見送ったマスメディアもあった。おそらく別人だという否定的見解もなかったが、それが容疑者の写真だという確証も得られなかった。それゆえ使うか使わないかの判断が分かれたということか。

○顔写真を巡る論争

 別人写真を掲載してしまったメディアは30日から謝罪に追われた。ただ謝罪の一方で、改めて考えておくべきこともあったのではないか。

 顔写真掲載ということで思い出すのは97年に14歳の少年が起こしたいわゆる「酒鬼薔薇聖斗」事件の際のやりとりだ。少年法が禁じている容疑者の顔写真掲載に踏み切った写真週刊誌『FOCUS』では、編集長が「顔を見ることが、少年を理解する一助になるだろうと考えた」と説明した。そうした姿勢に対して作家の灰谷健次郎が抗議し、発行元の新潮社から自らの著作の全版権を引き揚げて話題となる。この応酬を巡って立花隆が改めて写真掲載を擁護する立場に立つ。立花は人の顔が持つ情報量の多さを指摘し、写真を見たことで犯人に対するイメージが大きく変わったと述べた。事件の意味を理解するうえで顔写真が大きく役立つ主張する。

 ここでは顔写真の使用を巡って論争が繰り広げられているようで、実は基本的な見解は一致している。少年法が少年犯のプライバシーを保護しようとするのは更生後の社会復帰がスムーズにできるようにするための配慮からであり、顔写真掲載など特にまかりならんと考えられるのは、写真が出てしまえば、本人が特定されてしまう力が強いとみなされているからだ。つまり写真の情報量は多く、それが本人を示すと考えている点において少年法(と灰谷)と立花の間に変わりはない。しかし本当に顔は当人の人となりを示すのだろうか。

○顔を巡る神話

 「顔を持たない人間はいない。そして顔は自明のもの、万人の共通の認識対象になりうるものだと、漠然とながら誰もが了解している」。精神科医の春日武彦は著書『顔面考』(河出文庫)をそう書きだしている。しかし、

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