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[11]非常識を常識に

中村計 ノンフィクションライター

 沖縄でも、我喜屋優の情熱が、何度となく固定観念を粉砕した。

 我喜屋が監督に就任して間もないころ、最初に雨が降った日のことだ。それまでは雨が降ったらミーティングだけして帰ることが多かった。だが、その日は体育館を使って練習をした。主将の幸喜竜一が振り返る。

 「4月に入ってすぐでしたかね。練習が終わったあと、監督に『今度から各自で雨合羽と長靴を用意しておけ』って言われて。まさか……と思いましたけど、案の定でしたね」

 その数日後。さっそくそれらが役立った。

 新崎慎弥は、楽しげに思い起こす。

 「長靴履くと、子どもみたいに、わざと水たまりのあるところを歩きたくなるんですよね。最後の方は動きにくいんで、カッパも着ないでやってました」

 以降、土砂降りのときと、カミナリが鳴っているとき以外は、通常通りのメニューをこなすようになった。違うのは、選手たちが色とりどりのカッパと長靴を着用していることと、「レインボール」と呼ばれる古くなったボールに白いビニールテープを巻いたボールを使うことぐらいだ。

 現在、興南のグラウンド脇の下駄箱には、付着した泥が乾燥して真っ白になった長靴がさも当然のように100足強、並んでいる。

 我喜屋は、そうして常識の壁をひとつ叩き壊した。

 「雨が降ったら、なんで練習できないの? ゴルフ場行ってみたらいいさ。喜んでゴルフやってるよ。しかも高いお金払って。お百姓さんだって田植え、やめないよ。そもそも沖縄の子、雨降ったって傘ささないんだから。風邪、引きませんか? って言うけど、おまえらプールだって、海だって入るだろ。後をちゃんとすれば、そんなに簡単に風邪なんて引かないんだよ。グラウンドがガタガタになる? バカヤロー、余計な心配するなって。ならしゃ、いいんだよ。駒大苫小牧はマイナス十何度でも外でやってるよ。雨なんて、なんでもないよ。雪の代わりに泥があるだけじゃない」

 コーチの砂川太が苦笑混じりに言う。

 「監督に何か言われたら、『できません』とか『ありません』ということは絶対に言えない。それを何とかするのが仕事だろう、って怒られますから。企業ではそれが当たり前だろという考えなんです」

 しかし不思議なもので、どんな難題にぶち当たっても、ひとまず「不可能」ではなく「可能」という扉から入れば、どこかに道は続いているのだということがわかってくる。

 北海道で、そんな新しい道を次々と見つけたのが香田誉士史だった。

 香田が我喜屋と出会ったのは1998年秋、駒大苫小牧が初めて全国制覇を遂げる6年前のことだ。駒大苫小牧の父兄の中に我喜屋をよく知る人物がいて、その父兄が「絶対に勉強になるから」と香田のために一席設けてくれた。

 香田の回想。

 「その頃の感覚だと、外で野球ができるのは4月から9月か10月まで。半年間は室内にこもっていた。だから冬の練習方法を聞くときも、どうしても、室内なんで……って言っちゃうじゃない。そうしたら、我喜屋さんが『室内でできないことなんか何一つないでしょ』って。『そんなに外でやりたいんなら外でやればいいべや』って言うから、雪が……って言うと今度は『どければ』ってあっさり。挙げ句に『そんなこと言ってるから北海道はダメなんだ』って全否定。ショックだったよね。でも俺もやると決めたら頑固な方だからね。やっぱ無理だってなったら、また我喜屋さんに『だからダメなんだ』って言われるだけじゃない。それだけは絶対に嫌だった」

「雪上ノック」を受ける駒大苫小牧の選手=2005年

 そうして最初は天気のいい日に選手たちに長靴を履かせ、外野ノックをした。

 だが、ノーバウンドで捕球しないとボールが雪の中に埋もれてしまうため、トンボなどでグラウンドを軽く圧雪してからノックをするようになった。さらに長靴だと動きが鈍るので、ひと冬でダメになるのを覚悟でスパイクを履くようにした。

 慣れてくると少々の悪天候でも気にならなくなった。選手たちが、さすがに今日は外でやらないだろうというような空気を発しているときは、我喜屋の口調を真似て「できるっしょ」と極力、何事もないように言った。

 「あっさり言うんだよ。いい感じで吹雪(ふぶ)いてるじゃないぐらいの感じで」

 まるでオセロのようだった。ポイントを一つひっくり返すと次々と白黒が反転していく。

 雪上で野球をするという非常識を常識にひっくり返したことで、それまで非常識だと思っていたことがことごとく常識に変わった。

 雪のならし方も、行き着くところまで行き着いた。

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