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[14]負けた感覚

中村計 ノンフィクションライター

 すごい人がくるぞ――。

 我喜屋優が興南にやってくると決まったとき、選手たちは、散々そう言い聞かされていた。

 高校時代に「4番・センター」として興南を県勢初のベスト4に導いただけでなく、社会人野球では都市対抗で優勝し、その後、社会人の全日本のメンバーにも選ばれた。さらには駒大苫小牧が優勝した陰にも我喜屋の指導があったらしい、等々――。

 それら我喜屋の華々しい歴史は、日本の最南端で、限られた情報しか与えられずに育った沖縄の子どもたちにとって、もはや「神話」に近かった。

 加えて、北海道の子どもたちが香田誉士史にとって「真っ白なキャンバスみたいだった」のと同じように、沖縄の子どもたちにも同様の資質があった。我喜屋がこぼしていたことがある。

 「社会人は、頭かたいから。その点、高校生は素直だからね」

 興南の選手たちは、まずは我喜屋を全面的に受け入れた。その途端、結果が出た。これほどの好循環はあるまい。新崎慎弥が不思議そうに言う。

 「監督がきてから、練習試合も1回しか負けていないんです。野放しにされているような感じなんですけど、9回終わると勝ってる。展開的には負け試合でも、最後は相手を上回ってるんです」

 ほとんどの選手は、その1敗も忘れていた。つまり、感覚的には、ほぼ無敗だったわけだ。我喜屋が来たら、春の大会でコールド負けを喫した浦添商にも勝ち、その浦添商と並び2強と言われていた中部商にも勝ち、全国優勝の経験を持つ沖縄尚学にも勝った。

 浦添商の神谷嘉宗は、驚きを隠さない。

 「我喜屋さんが来てから最初に試合をやったのは4月中旬ぐらいだった。いきなりガンガン打つもんだから、びっくりしたんですよ。あの伊波(翔悟)が打たれましたからね」

 その理由を幸喜竜一はこう分析する。

 「前までは、どうやったら怒られないのかばかり考えてプレーしてた。でも、我喜屋さんになって、やるべきことに集中すればいいんだという感覚になった。そうしたら急に打てるようになって。僕らが変わったというより、持っていたものを引き出してくれたんだと思う。練習量だけだったら、それまでの方がやっていましたからね」

 我喜屋は決して120パーセントの力は求めるような言い方はしなかった。

 2007年夏の沖縄大会準々決勝、八重山戦で新崎に送ったアドバイスに我喜屋のその思想はよく表れている。7回表、満塁から9-9の同点に追いつく2点タイムリーを放った新崎は、打席に入る前、我喜屋にこう言われた。

 「普通に振れ」

 新崎が思い出す。

 「中盤も満塁のチャンスで凡退していた。だから、前のことは気にするな、やってきたことやればいい、って。普段から、気合い入れろとか、そういう言い方は絶対にしなかった。あのときも言われた通り普通に振ったら、レフト前にぽとりと落ちたんです」

 我喜屋は就任直後、選手たちに「甲子園」という言葉は一切使うなと厳命した。

 「準備もしてないのに行けるわけない。闇雲に登って結果的に登っちゃったということもあるかもしれないけど、オレは準備もせずに『目指します』っていうのは滑稽だと思うよ。実際、目指しますって言い続けて20年以上、行けてなかったんだから。ただ、富士山の5合目ぐらいまでは確実に行くよ、とは言いました」

 当時の興南は勝てない焦りから足元を見つめることを完全に忘れていた。「富士山の5合目」という言葉が、選手たちにのしかかっていた「勝たなければならない」という呪縛を解いた。

 そして大会に入る2週間ほど前、我喜屋は、父兄たちもいる前でこう大見得を切った。真栄田聡が思い出す。

 「大会前に親も集めてみんなで栄養会っていうバーベキュー大会を開くんです。そのときに『やってきたことやれば甲子園に行ける。大丈夫だ。その準備はしたんだから』って。そうしたら本当にその通りになっちゃったんですよね」

 我喜屋がその真意を明かす。

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