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いまもなお続く石巻市立大川小学校の悲劇

小野一光 ノンフィクションライター

 その光景はいまも目に焼き付いて離れない。時を経ても忘れることはないだろう。

 私が宮城県石巻市の大川小学校(以下、大川小)に足を踏み入れたのは、東日本大震災の発生から19日が経過した2011年3月30日のことだった。

 津波で窓を突き破られた2階建て校舎のなかは土砂と瓦礫であふれ、足の踏み場もない状況だった。泥まみれの筆箱やノート、小さな運動靴がそこここに散らばる。校舎前の校庭には堆積した土砂を素手で掻き出そうとしている女性がいた。我が子の安否がいまだにわからない母親だった。彼女のように憔悴した表情で我が子を探しまわる親たちの姿を、いたるところで目にした。

 そこは筆舌に尽くしがたい悲劇に覆われていた。以来、私は現地へ通うようになり、遺族や関係者への取材を重ねた。

 大川小は全校児童108人、教職員13人のうち、児童70人と教職員10人の死亡が確認され、児童4人がいまだに行方不明のままだ。児童のうち、生存者の多くは津波の襲来前に父兄が迎えに来るなどして難を逃れていた。また教職員も当時の校長を含む2人は学校から離れていて、実際に学校から避難する際に津波と遭遇して生還できたのは、教職員1人と児童4人だけである。

 追波湾から北上川沿いに約4キロメートル上流に位置する大川小の児童たちは、学校から約200メートル離れた新北上大橋のたもとにある、通称・三角地帯と呼ばれる高台へ列を作って避難しようとした。しかし校外に出た直後に、同大橋の方向から堤防を越えて押し寄せてきた津波に呑み込まれた。時刻は午後3時37分ごろ。震災の発生から約50分が経過していた。

 やがてこの空白の50分間になにをしていたのか、なぜ早急に避難ができなかったのか、さらには目指そうとした三角地帯にも結果的に津波が到達したことから、避難場所は正しかったのかということなど、当日の状況や事前の避難計画についての検証が始まった。

 そのころから児童の遺族が石巻市教育委員会(以下、市教委)に不信を抱いていることが表面化した。そして互いの溝は埋まらぬまま平行線をたどってしまう。いや、正確にいえば遺族への説明会が開かれるごとに溝が深まり、遺族の市教委に対する不信感は、修復不能なところまできてしまった感があった。

 両者の溝が埋まらないことから、石巻市は13年2月に第三者機関による「大川小学校事故検証委員会」(以下、検証委員会)を発足させた。検証委員会は1年間の時間をかけ、14年2月に「(震災直後の大川小は)避難開始の意思決定が遅く、避難先を河川堤防付近としたことが事故の直接的要因」とする最終報告書を作成、報告した。

 しかし当該の最終報告書に対し、遺族側は事実の解明が不十分で、新事実が出てきていないという評価を下した。その結果、児童の遺族54家族のうち、約20家族が宮城県と石巻市を相手取り、学校側が安全管理を怠ったと主張して、損害賠償を求める訴訟を起こしたのである。

 なぜ遺族は市教委に対して、それほどまで強い不信感を抱くようになったのか。
なによりも大きな要因として考えられるのが、市教委側の初期対応の不備、さらにその過程で露呈した責任回避の姿勢である。

 大川小の被害が他校とくらべて格別に大きいことが市教委に伝わったのは、震災から1週間ほど経ってからのこと。休暇中で被災を免れた当時の大川小校長は、3月16日に市教委に登庁し、翌17日に初めて大川小に足を踏み入れた。さらに学校にいて唯一生還した大人であるA教諭に対して、市教委による初めての聴取が行われたのは、震災2週間後の3月25日だった。

 A教諭への聴取の際、市教委の指導主事2名が聴き取りを行ったが、〈これが教職員Aに対する唯一の聴取機会とは考えておらず、記録のために録音を取ることに思い至らなかった〉(『最終報告書』より。

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