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「忘れられる権利」で忘れてはならぬこと

武田徹 評論家

忘れられる権利訴訟について話すマリオ・コステハ・ゴンザレス氏=スペイン忘れられる権利訴訟について話すマリオ・コステハ・ゴンザレス氏=スペイン
 2014年5月、欧州司法裁判所がGoogleに対して個人名の検索結果から、個人の過去の事実について報じる内容へのリンクの削除を命じる判決を言い渡した。この判決を受けてGoogleは、検索結果から個人情報を含むウェブサイトへのリンクの削除を請求するフォームを用意し、欧州域内からの請求に対応するようになった。日本でも10月に東京地方裁判所がGoogleに対して検索結果の削除を命じる仮処分決定を下している。

 これらの司法判断が画期的なのは、検索サイトに削除を命じたことだ。個々の記事を載せているサイトの運営者と異なり、検索サイトは記事へのリンクを機械的に張っているだけ。自ら表現をしていないので検索結果として表示される個々の内容について責任を持たないという主張がこれまでは通用してきた。ところが、今回、検索結果の表示については検索サービス提供者が責任を有すると判断された。

 ただ、同じようにGoogleの検索結果の削除が命じられているが、弁護士の清水陽平 の見解(「忘れられる権利」のいま SYNODOS 2014年11月20日 http://synodos.jp/society/11698)によれば、日欧の事例に若干の相違もあるという。欧州裁判所の個人情報、プライバシーについての扱いについては本人の意向が反映されるべきだと考えて判決を下しており、「個人が、個人情報などを収集した企業等にその消去を求めることができる権利」として「EUデータ保護規則」に「right to erase」として表記されている、いわゆる「忘れられる権利」が認められたケースとなる。

 それに対して日本の事例は違法なプライバシー侵害、名誉毀損、人権侵害につながる表現は改善されるべきだと判断したもので、命令が下された先が検索サービス提供会社であったこと以外は従来の人権侵害事案と変わることがない。そのため厳密には「忘れられる権利」が認められたとまでは言えないのだが、検索できてしまうことが社会的に「忘れられる」ことが出来ない主な原因になっている実情を鑑み、検索サービス提供者の責任を問うことで事態の改善を図ろうとした点は両者に共通する。

「忘れられる」ための条件

 ここで重要なのは、無条件で「忘れられる」わけではないことだ。欧州司法裁判所の判決では「検索を通じて情報を得るという一般市民の利益の優越を基礎づける特段の事情が見当たらない本件においては」という限定をつけて請求を認めた。

 日本の場合も、たとえば人権侵害に関しては「違法性阻却事由」が認められている。大雑把に言えば、その表現が真実であり、その情報を公開することに公益性がある場合は、表現に当事者の社会的評価を低下させるような違法性があっても問題にされない。

 たとえば政治家のスキャンダルを暴く報道はプライバシー侵害になり、当該人物の社会的評価を間違いなく低落させるが、その内容が事実にもとづき、公人である政治家の行動の真相を知ることが広く国民の利益になると判断されれば、その報道は違法性を問われない。言論表現の自由や国民の知る権利に応えることの重要性を優先させ、政治家に社会的評価を落とす表現の甘受を求めるのだ。

 検索結果に関しても、表示されるのがこうした真実性、公益性を満たす内容であれば、そこに違法性はないとされ、削除の命令を裁判所は出せない。こうした事情を踏まえ、たとえばヤフー・ジャパンは検索結果として表示する情報を削除することの適否を議論する「検索結果とプライバシーに関する有識者会議」を新設。表現の自由や知る権利とのバランスを考慮していく方法を検討すると報じられている。

 こうした検討作業は「忘れられる権利」を認めた司法判断が出た新局面の中で間違いなく必要だが、議論は困難が予想される。我々が全知の存在でない以上、真実を100%知ることはできない。間違いを完全に排除することはできないし、その時には正しかったことが、新事実が判明して覆される可能性は常にある。公益性の判断は更に難しい。

 価値観の違いによって公益性が認められるか否かの線引きが揺らぐし、技術の進化、情報環境の変化も公益性を巡る判断に影響を及ぼそう。声のコミュニケーションしかなければ過去の記憶は口承を重ねるうちに比較的早く消失しただろう。文字のコミュニケーションが可能になると情報が時間の経過に耐えて残るようになる。書かれた記録を収める図書館のような施設が作られると歴史の参照が更に効率的に出来るようになる。

 このように人類史は歴史を残す方向、忘れないでいられるように工夫する方向に進んできた。その最新状況が、インターネット上に大量のデジタル情報が存在するようになった現在の情報環境であり、図書館のように一箇所に情報が集約されているわけではないが、検索サービスを使えばインターネットの広がりを相手取って誰でも容易く希望する情報へアクセスできるようになった。過去の情報を図書館に通い詰めて調べあげるようなことは一般人にはなかなか難しかったし、そうした作業が可能な研究者やジャーナリストのような専門家は、職業的な倫理意識を備え、公益性のないかたちでの個人情報の暴露を控えるブレーキ役として働く面があった。しかしネット検索では誰もが簡単に情報に触れられてしまう。

 こうして個人情報の検索が易くなって、具体的に被害を受ける人が出易くなっている事情も考慮する時、情報アーカイブはいつどのように役に立つかわからないので原則的に全ての情報が記録、保存されていることが望ましいというような理想論は無垢に過ぎる。その人に関する情報が残され、知られることに公益性がある、つまりその人の「公人」性については今までより厳しく見定められるべきだろうと考えられるが、判断基準をどう変えればいいかについて明確な指針を立てることは難しい。

持続可能な利益最大化と被害最小化を

 こうした「忘れられる権利」について考えていて思い出した作品がある。

 「君の傍らを草喰みながらゆく畜群を見るがいい」。ニーチェは『反時代的考察』の中の「生に対する歴史の利害」をそう書き

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