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ハンセン病文学の現在

北條民雄と塔和子、ふたりの実名が明かされた背景とは

高木智子 朝日新聞編集委員(大阪在勤)

 小説「いのちの初夜」で知られる作家の北條民雄、「高見順賞」を受賞した詩人の塔和子。ハンセン病の療養所に生きたふたりの文人の本名が今年相次いで明らかにされた。強制隔離を定めた「らい予防法」が廃止されて18年。本名が明かされた背景には、出身地の人々と遺族らの信頼回復があった。

全生病院に入院したころの北條民雄=国立ハンセン病資料館提供全生病院に入院したころの北條民雄=国立ハンセン病資料館提供

 作家の北條民雄(1914~37)は今年、生誕100年を迎えた。出身地の徳島県阿南市の文化人と遺族による一つの決断が、注目を集めた。「七條晃司」。北條の本名と出身地が、市文化協会が出版した地元ゆかりの偉人を紹介した本「阿南市の先覚者たち」で明かされたのだ。

 本の執筆に携わった元市教育長の浮橋克巳さん(88)は20年近く、本名の公表ができないか、北條をたたえる碑を建設できないかと地元に暮らす遺族に打診を続けた。だが、家族を巻き込んだ偏見と差別を理由に、了承は得られなかった。

 戦後も続いた「無らい県運動」で、地域社会に患者の密告が奨励された。家族も排除され、偏見と差別につながった。このため、信頼を結び直すことが必須だった。

 阿南市に育った北條は1933年にハンセン病と診断された。その翌年、現在の多磨全生園の前身「全生病院」(東京都東村山市)に入院し、執筆活動をはじめた。入院直後に、北條が実体験した1週間の出来事を書いた。当時文壇をリードしていた川端康成の後押しを受けて、「いのちの初夜」として発表された。不治の病だった時代に、衝撃作と受けとめられ、一躍、ベストセラーとなった。

 ただ、知名度があがるにつれ、ふるさとの肉親は懸念した。「いつ本名が世間に知られるか。関わらないで欲しい」。川端側に懇願したことさえあったという。

 高い評価をもってしても、北條の死後も遺族は口を閉ざし、地元で知られることもなかった。

 なんとか名誉を回復させたい……。浮橋さんは北條の異母弟と友人で、

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