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都市と都市の連携で「核なき世界」実現を(下)

秋葉忠利・前広島市長インタビュー

秋葉忠利 前広島市長

都市と都市の連携で「核なき世界」実現を(上)

都市と都市の連携で「核なき世界」実現を(中)

――秋葉さんには、都市と都市の連携で国の政策を変えていくという考えがあると思うが、今後の都市の役割はどういうものだと考えるか。

都市は軍隊を持っていない

 都市は、そこに住んでいる人たちの命や生活を最優先する立場。決定的な要素は何かというと、都市は軍隊を持っていないこと。軍隊を持っていると、使いたくなる。使うための環境を整えてしまって、使うことが不可避であるかのような物語をつくっていくのが人間。軍隊があることはものすごく大きな枷(かせ)になっている。都市はそれがないから、もっと純粋に人間本意の考え方、動き方ができる。

「被害を防ぐ」立場で都市は連帯できる

 平和市長会議は、私が市長になった時は400余りの市しか加盟していなかったが、市長を辞めるころになって約5000になって、今は7000を超えている。そういう意味では都市の共感を得ている。平和市長会議が立てた計画は「2020ビジョン」、2020年までに核兵器廃絶をしようという計画だった。それがなぜ都市にアピールしたかというと、ほとんどの都市が戦争とか自然災害といった悲劇を経験している。都市の声というのは広島と同じで、「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」。英語で簡単に言うと「never again」。それで都市同士は連帯できるところが強みだ。

 国同士になると、戦争の被害があると、加害があるという話になる。「加害者は謝れ」ということになり、とは言っても、勝った方は負けた方を加害者だと断定するのが普通だ。その結果、国と国とのレベルでは、何らかの形で「和解」したことにして、今度は同盟国になって戦争をする、という繰り返しになる。都市だと、そのレベルの悪循環に陥らないで、「被害を絶対に防ぐんだ」という立場で連帯できるところが強みだ。

秋葉忠利氏インタビューに答える秋葉忠利氏
――都市に関して、著書などで「多様性」とか「寛容性」の大切さを述べているが。

 人間はそもそも多様だが、同じ地域に住んでいることで何とか折り合いをつけて一緒に暮らしていくと、どうしても寛容さが必要になってくる。リチャード・フロリダというトロント大学の人が調査した結果では、寛容さというのが経済的な力を発揮するうえでの重要なファクターになっていて、寛容さを測る簡単な指標というのがゲイとかレズビアンに人たちに対してどのくらい寛容であるかということまで分かっている。

多様性を受け入れるだけの寛容さが大事

 ケネディ大統領は1963年の演説の中で、「世界が平和になるためには、世界中の人たちがお互い同士愛し合う必要はない。寛容であればいい」と言っている。寛容はほぼ平和と同じ意味で、その寛容さが経済的な力も保証しているということだ。人類の未来を考えていくうえで、多様性が確保され続けることが大事で、その多様性を受け入れるだけの寛容さを持っていることが、これから人類が生き続けるうえで最優先されるべき要素になっている、という意味だ。その事実を意識的に都市の運営のために生かして、都市の力をもっと具体的に使って行くにはどうすれば良いのかを考えることが大事だ。

秋葉忠利氏秋葉忠利氏
 その対極にあるのが、国という存在。国は全部一つのものにまとめたがる。支配・被支配の関係で国は動いている。一番トップの人に一番力があって、下の方まで全部それに従うというのが、国の持つ形だ。これは軍隊を作って戦争をするためにはいいやり方だが、人間が多様であるところから見ると、本質とはかけ離れたところを強制していることになるから、そこが国の限界だと思う。だから、都市を中心にした新しい世界組織をつくっていくのが、これからのあり方だ。

都市の価値観を中心に考える時代に

 別の言葉で表現すると、国家を中心にものごとを考える時代から、都市の価値観を中心に考える時代にパラダイム転換をすることが必要だ。男性・女性でいうと、国家は男性的な価値観を代表する存在で、都市は女性的な価値観を代表する。フラットな関係で横につながるのが都市。世界の都市が連帯をして平和を希求するのは、普通の話だが、国家同士だとどうしても従属関係ができてしまう。

――アキバ・プロジェクトをはじめ、核廃絶のための運動にずっと携わってこられたが、秋葉さんにとって運動の原点とは何か?

 子どもの時の体験と高校の時の体験だ。私の記憶の一番古いものの一つは、千葉で空襲警報が鳴った時に、母が小さかった弟を行李に入れて最初に防空壕に連れて行き、私は縁側で待っていた時のことだ。ほんの1分から2分の間だと思うが、その時の恐怖感、孤独感をはっきりと覚えている。別の日には近所に焼夷弾が落ちて、幸いにして大きな被害はなかったが、怖いのと火花が散ると結構きれいだったことを今でも覚えている。

 小学校高学年になって、「ひろしま」という映画と「原爆の子」という映画の二つを学校からの団体鑑賞で見に行ってショックを受けた。とにかくすごく怖くて、学校を2日休んでしまうほどだった。その後、何カ月も飛行機の音を聞くと怖かった。

アメリカ留学の体験がくれた「宿題」

 高校の時にアメリカに留学をして、そこでアメリカの歴史をとった。最後の方になって原爆投下の話になった。そこでの説明は、トルーマン大統領が原爆投下後の記者会見で説明したことと同じで、「パールハーバーが先だった。戦争が早く終わった。その結果としてアメリカ人が25万人、日本人も25万人助かった。だから原爆によって死んだ人がいるにしろ、それだけたくさんの人たちの命が助かったのだから、投下は正しかった」という内容だった。

 もう一つ、アメリカ人の頭の中に刻み込まれているストーリーは、「パールハーバーのような究極の悪の代名詞である日本人に対して、善の代表であるアメリカが、神の与えてくれた原爆によって、悪を懲らしめた」という勧善懲悪の話だ。その時に、広島の被害のことも少しは知っていたので、何とか説明しようとしたが、英語の力もあまりなかったし、知識も不十分だったから、説明ができなかった。AFSという団体の制度で留学したのだが、AFSが私にくれた「宿題」だと感じた。そのあたりが原点だ。

 大学に入ってからすぐ、夏の原水禁世界大会の通訳として働いた。それで原水禁運動とつながりができた。その後、アメリカに住むようになって、アメリカ人の原爆観がまるきり変わっていないことに気付き、

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