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裁判官の日常から死刑、冤罪までを追究

ジャーナリスト清水潔さんとの対談『裁判所の正体』が出来上がるまで

瀬木比呂志 明治大法科大学院教授

 ジャーナリストの清水潔さんとともに、『裁判所の正体――法服を着た役人たち』(新潮社)を刊行した(2017年5月20日)。

  といっても、僕は、4月1日から在外研究で1年間アメリカ(ハワイ大学ロースクール)に来ているので、この本については、5月半ばに日本から送られてきたものを、東部の友人宅(夫のほうはすでに退職しているが、ペンシルヴェニア大学のフランク&リンダ・チャンス夫妻。日本・アジア文化研究者)に持って行って、そこで読んだので、何となく、自分の本というより、人の本をもらって読んだような、不思議な感覚がある。

  日本を出てから日本語を全く読んでいなかったために、そんな感覚が生じたのだろう(優秀な若手弁護士たちの熱意にほだされて、また、大きな公益のある仕事だとも考えて、4月から5月のあわただしい時期に、4つの原発訴訟のための30頁余りの意見書〔要旨は「脱原発弁護団全国連絡会」のホームページに掲載されている〕を急ぎ書いてはいたが、書くのは、読むのとはまた異なる)。

  この書物の趣旨、大まかな構図や今日的なテーマ性については、同書の「あとがき」(「まえがき」は清水さん担当)に詳しく記したし、編集者の話では書評やネット上の反応も出始めているようだ。そこで、この文章では、せっかくウェブロンザ編集氏から依頼をいただいたことでもあるので、この本が生まれた経緯、どのようにしてそれが形をなしていったかについて、忘れないうちに、少し詳しく記しておきたい。普通の対談とは異なる長い時間と労力をかけて作られた書物だからだ。

  清水さんとは、この対談の関係を除けばお会いした回数は少ないのに長年の友人のような気がするのは、ひとつの本を一緒に作るという苦楽をもともにしたからだろう。

  清水さんに初めてお会いしたのは、今古い手帳が手元にないので確かめられないが、多分、2015年の春だったと思う。清水さんの『殺人犯はそこにいる』については『ニッポンの裁判』で詳しく取り上げていたが、その後、彼の処女作である『桶川ストーカー殺人事件――遺言』を読んで、僕は、心底感動してしまったのだ。

 被害者の「遺言」に応えるべく始動した清水記者の愚直なまでの執念が、やがて犯人と警察の双方をじりじりと追い詰めてゆく様は、まさに圧巻だった。「これこそ記者魂だよ、正義だよ」と僕は思ったのだ。僕は、「感動」とか「正義」という言葉を滅多なことでは使わないから、この感想は、信用してもらっていいと思う。

  それで、清水さんに手紙を出し、メールも交換して、明治大学の近くで食事した。そのとき、帰り際に、清水さんから、対談の話が出た。

裁判所の頂点に位置する最高裁の庁舎=2012年、東京都千代田区裁判所の頂点に位置する最高裁の庁舎=2012年、東京都千代田区
  僕は、そのとき、すでに、『黒い巨塔 最高裁判所』の執筆に入っていて、これは、ウェブロンザの別の文章でも書いたとおり、2冊の新書『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』では十分に書きえなかった日本の司法の特異な権力構造、そして、そこにせいそく棲息する人々(インサイダーとアウトサイダー)の生き方や思想のリアリティーを、正統的な小説の枠組みの中で追究したものだ。同時に、僕がこれまでにみてきた戦後日本と社会の歴史、その負の部分についての総合的考察でもあった。

  2冊の新書と『黒い巨塔』はいわば3部作である。また、これらに先立ち専門書として書いた『民事訴訟の本質と諸相』は、主として法社会学的な観点から、日本の司法、法学、人々の法意識等にまつわる問題を多面的に論じていた。僕の学者としての研究のひとつのまとめ、総論に当たる本だが、3部作との関係でいえば、それらの額縁に当たる意味をももつ。

  そして、僕は、一連の直接的な日本の司法批判・分析の最後に、以上のすべてを補足し、その意味をも明らかにするとともに、そこには出さなかった新たな情報をも加えた対談をやりたい、と思っていた。

  ただ、この対談は、相手を選ぶ。学者では学問の話になってしまうし、ほかの分野の著者でどなたか、といってもなかなか思い付かない。何より、相手が司法に深い興味をもっていないと対話が成り立たない。したがって、ここは、司法に感覚のあるジャーナリストが最善だ。その中でも、清水さんは、最も気迫に満ちた対話をしてくれそうなひとりだった。

  そこで、「やりましょう」ということになったのだ。ところが、前記3部作の中でも際立って執筆が大変で長期の消耗戦になった『黒い巨塔』の執筆で、僕は、その後間もなく、いささか体調を崩してしまった(だから、『黒い巨塔』の執筆は、その途中で半年間止まっている)。

  そのため、対談も、当分待っていただくこととなり、結局、1年近く後の、2016年2月上旬の1週間に、とびとびの3日間にわたって、新潮社の近くの専用対談室みたいなところで行われた。

  清水さんと編集者から事前にいただいていた論点メモに僕のほうでさらに手を加え、A4判で3頁のかなり詳しいものを作成し、資料も項目ごとに整理持参して臨んだ。また、3回の対談の前後は、ほかに何も予定を入れず、気力体力の充実に努めた。

  かなり詰めた作業や準備を事前にしていたわけで、あとは、長くとも9時間程度の対談をそのまま起こせば本になるだろう、というもくろみだった。

  しかし、異なった意味でそれぞれにしつこい清水さんと僕の対談は、そういうふうには進まなかった。初日から、完全に記者魂のスイッチが入ってしまった清水さんの発言、質問は、メモには関係なく、個々の議題事項からどんどん広がってゆき、さすがに、僕も、編集者の内山淳介さんも、「議題事項からどんどん外れてゆくけど、大丈夫?」という懸念をそれぞれに表明した。

  しかし、清水さんは、「いや、始めてみたら、興味津々なことばかりなので、対談ではなく、もっぱら私のほうからききたいことを尋ねる、記者としてのインタビューを、ぜひともやりたくなりました。どんどん聴かせてください。これでいいんです」と確信をもって答える。

  結局、3日間の対談は、朝から夕方までぶっとおし、各回が予定の2倍の6時間ずつ、合計18時間、1日が終わると3人とももう完全に疲労困憊、そして、対談の反訳は、書物にすればおそらくは700頁以上という規模にまでふくれ上がってしまった。これをそのまま起こしたら、上下の2巻になってしまう。しかし、上下巻の対談というのは、あまり見たことがない。

  対談が終わったところで、

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