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[13]関東地震と後藤新平

多方面で才能を発揮し、帝都復興計画をまとめる

福和伸夫 名古屋大学減災連携研究センター教授

 東京や横浜が焼け野原になり、10万人の犠牲者を出した関東地震から95年を迎える。この地震のあとに帝都復興計画をまとめたのが後藤新平である。

 関東地震が起きた大正時代は、藩閥政治から政党政治に移行した時代である。第一次世界大戦による好況を受け、護憲運動や労働運動、婦人参政権運動、部落解放運動など、民衆運動も活発に行われた。西洋式の洋食・洋服・文化住宅などが広がり、芸術・大衆文化、路面電車や乗り合いバス、家庭電化製品など、都市文化が形成された。多くの犠牲者を出す地震もあまりなかった。そんな中、1923年9月1日11時58分に関東地震が発生した。

相模トラフで起きた関東地震

関東大震災の四十九日法要に参列した各大臣=1923年10月19日
 関東地震は北アメリカプレートにフィリピン海プレートが潜り込む相模トラフで発生したM7.9の巨大地震である。震源域が神奈川西部から房総半島南部にわたるため、神奈川県や千葉県南部で強い揺れになった。震源域からやや離れているが、東京の沖積低地も強く揺れた。死者・行方不明者は、東京や横浜を中心に10万人強に上った。地震の時の揺れの様子は、上野の喫茶店で地震に遭遇した物理学者・寺田寅彦が「震災日記」に書き残している。

 「それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分のまったく経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみしみしと音を立てながら緩やかに揺れていた。・・・中略・・・主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。」

関東地震の甚大な被害

 関東地震は火災被害の印象が強いが、揺れによる家屋全壊も約11万棟あった。家屋倒壊による死者数は1万1千人で、兵庫県南部地震の倍にもなる。住宅全壊棟数は、東京市が12,000、東京市の1/5の人口の横浜市が16,000で、横浜市の被害の方がはるかに大きい。死者の9割は焼死で、焼失棟数は21万棟にも上る。炊事どきの正午直前の地震であり、前夜の台風による強風で、住家が密集した東京や横浜で大火となった。本所の陸軍被服廠跡では、火災旋風により避難していた4万人弱が犠牲になった。地震後には、伊豆半島から相模湾、房総半島の沿岸に高い津波が押し寄せ、熱海、伊東、鎌倉などで、200~300人の犠牲者が出た。土砂災害も各地で発生し、全体で700~800人の死者となった。

続発した地震で時代が変わった

 関東地震後も地震が続発した。1925年北但馬地震、27年北丹後地震、30年北伊豆地震、33年昭和三陸地震などである。この間、25年に普通選挙法と治安維持法の制定、ラジオ放送の開始、26年末に大正天皇の崩御、27年には昭和金融恐慌や南京事件も起きた。さらに、29年世界恐慌、30年昭和恐慌、ロンドン海軍軍縮会議、31年満州事変、32年5・15事件、33年国際連盟脱退、36年2・26事件、日独防共協定締結と続き、37年日中戦争、41年太平洋戦争と8年間の戦争に突入した。

帝都復興計画

 震災後には、帝都復興院が設置され、後藤新平総裁を中心に帝都復興計画が立案された。国による被災地の買い取りや、100m道路、ライフラインの共同溝化など、斬新な計画だったが、財政緊縮のため計画は大幅に縮減された。だが、これによって現在の東京の都市計画の骨格が整えられた。東京の被災者の多くは地方に疎開した。東京市から疎開したのは人口の1/3の74万人にも上る。特に、被害が甚大だった浅草、本所、深川からはそれぞれ10万人以上が避難した。当時は東京市民の多くが故郷をもっていたことが幸いした。

多才だった後藤新平

後藤新平
 後藤新平は、一般には政治家と見られているが、もとは医者で、筆者が勤務する名古屋大学の前身、愛知県医学校の校長や愛知病院の院長も務めていた。その後、衛生官僚を経て、台湾や満州で国造りや都市造りに携わり、政界に進出、東京市長を務めた後、帝都復興計画をまとめた。その肩書は、台湾総督府民政長官、南満州鉄道(満鉄)初代総裁、貴族院議員、鉄道院初代総裁、逓信大臣、外務大臣、東京市長、少年団日本連盟(現在のボーイスカウト日本連盟)初代総長。東京放送局(後の日本放送協会)初代総裁、拓殖大学第3代学長(前身は台湾協会学校)など多岐に渡る。

 後藤は、陸奥国胆沢郡塩釜村生まれの東北人である。胆沢県庁の給仕に採用されたとき、大参事の安場保和に認められ学僕になった。その後、安場の作った須賀川医学校で医学を学び、愛知県の県令になった安場を頼って、愛知県病院に勤めた。愛知県病院では、お雇い外国人医師アルブレヒト・フォン・ローレツから西洋近代医学を学んだ。ローレンツは、愛知県の衛生行政を指導していたため、後藤を衛生行政の専門家としても育成した。後藤は弱冠24才で、愛知県医学校長と愛知病院長に就任した、1882年に自由党の板垣退助が岐阜で凶刃に倒れたときには、負傷の手当をした。板垣に「閣下、御本望でしょう」と一喝したらしい。板垣が「吾死スルトモ自由ハ死セン」との名言を残した事件である。

 1883年に、後藤は愛知医学校を辞して内務省の御用係になり、10年余り衛生行政に携わった。1890年にはドイツにも留学し、帰国後、35歳で衛生局長になった。しかし1893年に相馬事件に連座して入獄し、衛生局長を辞した。その後、衛生局時代の上司の計らいで、1895年に臨時陸軍検疫部事務官長に就任し、後に陸軍参謀総長になる児玉源太郎に認められ、再び衛生局長に就いた。

台湾・満州での国造り・都市造り

 1898年に児玉が台湾総督に就き、後藤は民政局長として招かれ、その後民政長官になった。後藤が41歳のときで、台湾の経済改革とインフラ建設、アヘン政策などに勤(いそ)しんだ。この間、鉄道部長、専売局長、貴族院議員にもなった。1906年には、南満州鉄道株式会社の初代総裁に就任し、

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