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桜の季節に安部公房を

閉塞したいまの言論空間を彼ならどう評するだろう

石川智也 朝日新聞記者

サクラの姫路城。大天守を囲むように咲き乱れる満開の桜=2019年4月8日、映像作家・藤原次郎さん撮影

 東京ではとうに散ったが、桜前線はまだまだ列島を北上中だ。

 桜の季節になると、条件反射のように安部公房を連想してしまう。そしてその作品を読み返すということを毎年繰り返している。群衆の喧噪を離れてぽつねんと、数学者さながら論理的で精緻な思索を続けた孤高の作家の言葉がとくに近ごろ頭蓋内に居座り続けているのは、今年がやはり特別な年だからだろう。

 ぼくは桜の花が嫌いだ。闇にたなびく雲のような夜桜のトンネルをくぐったりするとき、美しいとは思う。美しくても嫌いなのだ。日本人の心のなかに咲くもう一つの桜のせいだろう。たとえば舞台の書き割りに、それもチンク・ホワイトなどではなく、貝殻の粉を原料にした胡粉の白で描かれた桜。外国人には美学的にしか映らなくても、日本人には情念の誘発装置として作動する強力な象徴なのである(『死に急ぐ鯨たち』より)

 桜が日本を象徴する花であることは言うまでもないが、もうひとつのこの国の象徴が、間もなく代替わりを迎える。

人間は〈ことば〉を種火に想像・創造のエンジンを始動させた

 年度替わり前後の寒気のぶり返しで例年より開花が遅かったため、恒例の首相主催「桜を見る会」が開かれた4月13日には、会場となった新宿御苑の数百本の八重桜はまさに見ごろだった。

 メディアが盛んに「平成最後」と報じたこの会には芸能人ら約1万8千人が出席したというが、安倍晋三首相は満開の桜の下の挨拶で、「平成を 名残惜しむか 八重桜」「新しき 御代寿ぎて 八重桜」の2句を披露。そして「皇位の継承がつつがなく行われるように準備万端、全力を尽くしていきたい」と述べた。

安倍晋三首相と記念写真を撮る「桜を見る会」の参加者たち=2019年月13日、東京都新宿区

 二つの「象徴」によって誘発される情念が結びつく先は、紛れもなく、ナショナリズムだろう。しかもこの場合の「ナショナリズム」は、社会契約論的な「市民のネーション」を形成するそれではなく、多分に「血」と結びついた文化的、民族的なエスノナショナリズムである。

 情念は感性や感覚といった生理的機能と混同されがちだが、実はデジタル記号であるところの言語による認識機能の一形態であり、しかもその機能が弛緩した状態の言語もどき、「亜言語」なのだ、と安部は分析した。言語学者チョムスキー、大脳生理学者パブロフらの知見を咀嚼しつつ独特の言い回しで言語や文明、そして人間を論じたその分析は、まるで宇宙人が地球を観察するかのように徹底して客観的で、きわめて刺激的だ。

 信号知覚と反射行動が一対一で対応している動物とは異なり、人間はその閉じたプログラムを〈ことば〉によって開いてしまった。動物は捕食、逃避、攻撃、求愛、巣作りといったすべての「生」の形式が遺伝子に組み込まれたプログラムの実行だが、人間は外界の刺激をいったん〈ことば〉のフィルターを透過させ意味の信号に転換するという回りくどい方法をとらねばならない。そのため個体の行動選択はまちまちで予測困難になり、群れの統一行動は不安定化した。代わりに、経験と学習という、より高度な環境適応能力を獲得した。

 つまり、群れのどの個体も例外なく一糸乱れぬ行動をとる本能によるシステムの安定を捨て、人間は〈ことば〉を種火に想像・創造のエンジンを始動させた、ということになる。

桜は異端審問官の紋章

 しかしながら〈ことば〉を手に入れるために支払った代償のなかに、集団化の本能だけは入っていなかったらしい。〈ことば〉はプログラムを開いて群れを「分化」「個別化」させるだけではなく、群れをより強固にするためにも機能してきた。組織を縦横に構造化し、版図を拡張し、他集団との対立を煽り、やがてはちょくせつ顔を合わせることのない成員を組織するまでに巨大化、抽象化され……ついには国家が誕生する。人間の同種殺害能力は〈ことば〉とともに誕生したのでは、というのが安部の見立てだ。

 そしてさらに安部が強調するには、その「集団化」をうながす側の〈ことば〉の信号は、強力に見えて、実は本来の作用が緩んで休息した状態だという。「分化」「個別化」が〈ことば〉の緊張状態であるのとは正反対に、その働きが眠った状態に他ならない。それがつまり亜言語=情念だ。

 確かに、サッカーのナショナルチームの活躍に熱狂し、オリンピックでの国旗掲揚に涙ぐむのに、ことさら〈ことば〉の緊張は必要とされない。「集団化」は〈ことば〉の休息・弛緩状態だが、熱狂や昂揚感とはべつに矛盾しない。大脳皮質を麻痺させるアルコールだって主観的には興奮を引き起こす。そして集団化の衝動を強力に刺激するのが「涙」だ。涙は人を思考停止させる。

リオ五輪閉会式で映し出された日の丸=2016年8月21日、マラカナンスタジアム

 情念は緊張状態の〈ことば〉のように体系的ではなく、共同体験の反復をつうじて形成、強化される。だから同じ文化圏でしか通用しない。共同体験の反復を効果的にもたらすものこそが、儀式だ。儀式を司るシャーマンは、だから、敵味方を識別するリトマス紙として情念を重宝し多用する。桜は異端審問官の紋章なのだ。

 「分化」と「集団化」という〈ことば〉の二機能がうまくバランスをとった時代があったのか、「儀式」としての〈ことば〉はいつも善玉でありすぎた――と安部は嘆いたが、この1カ月間にこの国で起きている状況を見るに、これほどまでに「儀式化」「集団化」の〈ことば〉があふれた時代は久しい。それこそ30年ぶりだろう。

「同じ日本人」という黙契

 この先しばらくは、退位礼、剣璽等承継、即位礼に大嘗祭と、文字どおり国家規模の儀式が続く。

 現在進行で起きているものは、憲法7条が定める国事行為を行う国家の一機関ではなく、情念と結びついた集団主義の守護神の壮大な交代劇である。聖者の行進と足跡を称えるメディアの感動物語は、浄めの儀礼なのだ。バラバラの日常生活を送っている寄る辺ない個人が、こうして「同じ日本人」という黙契につなぎ留められていく。

 なにも天皇制の是非を論じろと主張しているわけではない。天の邪鬼や反順応主義のパフォーマンスを演じろというわけでもない。

 ナショナルな存在であるメディアはともかく、せめて、研ぎ澄まされた表現の世界であるはずの文学からは、麻薬を解毒治癒し「分化」機能を回復する〈ことば〉が発せられてほしいが、聞こえるのは、

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