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写真家・岩根愛の旅(下)福島の変化を撮り続ける

ハワイと福島への12年の旅を綴った『キプカへの旅』

臺宏士 フリーランス・ライター

米コダックの機械式カメラ「サーカット」について語る岩根愛さん==2019年4月30日、東京・西新宿のニコンプラザ新宿、筆者撮影

米国の“ド田舎”への留学

 岩根愛さんが、プロの写真家を目指す決心をしたのは、米国で過ごした高校時代にまでさかのぼる。

 両親との折り合いが良くなく、小学生のときから祖母や友人の家で生活をしてきた。このころのことを「家出」と表現することが多い。

 「とにかく日本から脱出したかったのです。行先は、米国である必要はありませんでしたが、英語だけは熱心に勉強しました」

 中学三年生のころ、米国のフリースクールに留学していた「家出先」の次男が全米のフリースクールを紹介した冊子を持って帰国した。その中からおよそ50校を選んで手紙を次々に送りつけた。返事のあった中から、留学に必要なビザの取得に最も熱心な学校を選んだ。

 しかし、入学手続きは取るもののすぐに転校する気でいた。なにしろ東京で生まれ育った岩根さんにとって、そこはあまりにド田舎!だったのだ。

 「私、ムリ」

 学校は、西海岸の北カリフォルニアの海に面したペトロリアという人口200人ほどの小さな町の森の中にあった。ペトロリアハイスクール。生徒も全学年(4年)で20人ほどしかいない。

 なにしろ、初めて訪れたときに出迎えてくれたのは、駐車場の片隅で用を足していたブロンド女性の白いお尻だったのだ。

 女性は、学校で飼育している馬の世話係だった。トイレはその辺の草むらか、掘っ立て小屋に黒く深い大きな穴が一つあるだけだ。その上に便器らしきものはあるにはあるが。

 電気は太陽光発電。曇りの日は、薪をくべて沸かさなければ、シャワーのお湯は出なかった。1年目、大雨で川が増水すると周囲が水没し、箱舟のように浮かんで見えることが自慢の創始者の家で暮らし始めた。

 岩根さんは1991年9月、試験に合格し、1年飛び級して11年生(日本の高2)として編入した。

 のちに岩根さんは、高校時代を振り返ったエッセイを文章にしている。写真家の若木信吾氏が発行人を務めた雑誌『youngtree press4号』(2005年)への寄稿にこんな一文がある。

 〈高校生活のことを伝えようと思ったら、そこで過ごした同じだけの時間が必要なほど、色々なことがあった。大地震があって、倒れた寮をみんなで建て直した。修学旅行の資金を集めるために高速道路80マイルぶんのゴミを拾って、その活動に対する寄付をつのった。大雨のなか植林の仕事もした。グランドキャニオンを登ってコロラド川に降りてまた登って帰った。育てた七面鳥を殺して食べた。羊のさばき方も教わった。七色の空を見た。自家発電の研究。学生らしい恋愛もした>そして、<学びながら生きていく楽しさを教わった。写真を始めたのもペトロリアだった〉

 被写体は、何気ないみんなの日常だった。

 米小説家・マーク・トウェインが描く冒険小説のような毎日。学校は、田舎に移住したヒッピーたちが自分の子供たちのためにつくったことを後から知った。すぐに転校しようという思惑はいつのまにかどこかに消えて行ってしまったという。

 「学費は祖母に出してもらっていました、当時の私は、経済的にも早く独立して働き始めることが大人になることだと思っていました。日本の大学に進学する考えは全くありませんでしたね」

 岩根さんは1993年8月帰国し、写真家を目指した。19歳のときに雑誌『ブルータス』(マガジンハウス)の企画に参加した。このとき、著名な写真家と知り合った。

 「『ブルータス』編集部には手紙を書いて自分の作品を売り込んだ」「もう路頭に迷うしかない」――。

 この写真家は岩根さんの話を面白がって、作品も見ることなしに「それじゃ、明日から来い」と、その場での助手採用が決まった、という。

 写真家への道が開けた。

墓石に「明治」「福島」の文字

 「自分の周りに亡くなった方々が立っているような感覚になりました。顔は、のっぺらぼうで、分からないけれど何人もが確かにそこにいる。でも全然、怖くないんです」

 岩根さんがハワイの日系文化に魅せられた一つに日系人が葬られた墓地がある。

 2006年8月。ハワイ島にあるオオカラという小さな町を訪ねた。町は、かつてはサトウキビ産業で賑わったがいまは棄てられた町のようになっている。鬱蒼とした身の丈をより高い茂みは、もともとはサトウキビ畑だった。

 その茂みをかき分けて進むと、一本の大きなホウオウ(鳳凰)木を見つけた。案内してくれた現地に移住した日本人によると、そこには、かつて日系人のための日本語学校があったという。

 学校裏に古い墓地を見つけた。石ころを墓石に見立てたようなお墓があちこちにあった。苔むした墓石に刻まれた文字には、漢字で「明治」とあった。

 岩根さんによると、こうした墓石には出身地や家族の名前も一緒に刻まれているという。例えば、

福島県信夫郡吉田村 守口勝蔵 享年二十二歳 明治四十三年十月三十一日▽福島県信夫郡佐倉村大字下 佐久間粂蔵三男勝治 享年八歳 大正八年一月八日

 「墓石の文字にぐっと来ました。この人たちのことをもっと知りたいと思いました」

木村伊兵衛写真賞を受賞した写真集『KIPUKA』と近著『キプカへの旅』に収録された作品
 ドキュメンタリー映画「盆唄」(中江裕司監督)の中でも取り上げられたが、長くハワイの経済を支えたサトウキビ産業は競争力のある南米産の台頭によって衰退の一途をたどり、2016年、最後まで残ったマウイ島の農場が閉鎖された。

 日系移民の歴史は農場での労働から始まり、農場内に設けられた「キャンプ」と呼ばれた移民の居住地区には、学校やお寺、そして墓地も設けられた。農場の廃止とともにこうした日本からの移民らが住んだ居住地区も放置されたままになったらしい。

 この出合いをきっかけに岩根さんの日系人の墓地探しが始まった。

 「日本人移民の古いお墓を知りませんか」――。

 本腰を入れ始めた2014年からは毎年夏、ハワイに長期滞在した。週末は盆踊り、平日は各島々に点在するお寺を訪ね歩き、住職や檀家、そして一世ら地域のお年寄りに聞き回った。日本人の女性カメラマンがお墓を探しているという情報は次第に日系社会にも広がり、「お寺の古い記録に農場との土地の賃貸借契約があった」「古いお墓が見つかったらしい。行ってみるか」と声がかかるようにもなったという。

 「サトウキビ畑の中で育った二世も今では年齢も90代になっています。移民世代のお墓の記憶を持っている人とどう出会うかが重要です。数基だけから数百基もある大きなものまでこれまでに25カ所くらい探し出せました。多くは明治、大正のころに建てられたものです。墓石といってもセメントで作られたものもありました」

 忘れられた墓地と言ってもその風景は、裏寂れた感じではないようだ。サトウキビの代わりに生い茂るのはバナナやマンゴー、アボガドなどといったフルーツもある。そんな南国の風景を思い浮かべると、忘れられた墓地に親しみも出てくる。

 「日系移民たちの忘れられた墓地探しに再び力を入れようと思っています」

5年かかったパノラマ撮影

 「盆唄」の中で岩根さんが使用したカメラ「サーカット」は、マウイ島にある写真館「ナガミネ・フォトスタジオ」(1931年創業)から借り受けたものだ。

 ようやく出会ったカメラに岩根さんは思わず、「売って下さい」と切り出していたという。創業者の孫、リック・ナガミネさんがいまの経営者だ。彼には「祖父の大切な思い出だから」とすぐに断られたが、リックさんは粋だった。

 「写真が撮れたら持ってきてね。いつか写真展をやってね」

 この二つの口約束だけで借用書も交わさず、快く貸し出してくれたという。期限も決めぬままに。
日本に持ち帰り、全く動かなかったものを福島県三春町の時計職人らの手を借りて現役復帰にこぎつけた。

 2013年。ひと夏をかけて三春町内で行われるすべての盆踊りを撮影した。これが縁で、廃校になった同町の旧町立桜中学の施設を利用できるようになった。パノラマ撮影用の2メートルにも及ぶ長いフイルムを現像するには特別な設備が欠かせなかったのだ。給食室は暗室になった。この時から岩根さんの写真家としての活動拠点の一つに三春町が加わった。

 東日本大震災のあと、三春町には富岡、葛尾町から避難してきた人が多くいた。その人たちの一時帰宅に同行し、自宅や農地を背にしたサーカットによるパノラマ写真の撮影を始めた。2013年10月のことだ。

 ところが、初日から躓いた。

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