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転向の時代 「若さがマルクス主義をとらえたが」

日本会議と共闘する労働戦線は、どう作られてきたか <5>

藤生 明 朝日新聞編集委員

 白樺派の作家・武者小路実篤らが夢見た理想郷「新しき村」。宮崎県の山間部に拓かれて100年たった昨年、姜尚中・東大名誉教授と、埼玉の村(戦前、ダム建設に伴って宮崎から大半が移転)を訪ねた。60人ほどが暮らしていた高度成長期のにぎわいはなく、定住2世帯と単身者4人、近隣から通ってくる村民だけ。ただ、実篤の言葉が道端の標柱に刻まれ、その理想にふれた気がした。

埼玉の「新しき村」を訪ねて、武者小路実篤氏の理想を聞く姜尚中・東大名誉教授=2018年8月3日、埼玉県毛呂山町、林紗記撮影
 同行取材をお願いしたのは、姜氏が傾倒する夏目漱石と、武者小路実篤や志賀直哉らが認め合う関係だったからだ。東大時代の実篤は漱石の授業に潜り込んで聴講したり、文壇から漱石が攻撃されると文芸誌『白樺』で擁護の論陣をはったりもした。

 そんな両者だったが、姜氏は白樺派について、学習院出身のお坊ちゃま集団という印象を抱いていたという。それが、訪問を機に調べると、恵まれた彼らだからこそ見えるモノがあったと知った。「貧しさ、社会の不平等の上に、自分たちの豊かさがあるという負い目。そこで人道主義を掲げ、行動した実篤はすごい」

 夏目漱石は、日露戦争後に社会問題化した、目標を失った青年たちに心を寄せ続けた。理想を掲げながら挫折し、悩む作中人物たち。そんな姿は白樺派の作家の生き様とも重なり合う。漱石は学習院に出講した際、こんな話をした。「君たちは権力も知恵もお金もある。無自覚に他者の自我を害しないようにしなさい」。自他の自我を大切にという村の精神に通じると、姜氏は言った。

 村はロシア革命の翌年に誕生した。日本では米騒動の時代だった。東大に新人会ができ、一部は後年、共産主義へ傾斜した。実篤らは左翼から「特権階級のお遊びだ」「空想的だ、生ぬるい」と批判されても、そうしたイズムに縛られなかった。

学生という特権階級への罪悪感

 旧民社・同盟の歩みをたどるこの連載で、新しき村を引いたのは、「負い目」から社会・労働運動に飛び込んだ人々が散見されるからだ。その一人に新人会幹事長、共産青年同盟委員長を務めた竪山(たてやま)利忠氏という人物がいる。

 大河内一男・元東大総長(社会政策)の学友で、獄中で転向。もともと学究肌だったこともあって、戦後は拓殖大学教授、創価大学教授。民主社会主義研究会(民社研)理事になって、反共反ソ陣営の最前線に立った。竪山氏は共著『東京帝大新人会の記録』で、大学入学直後に参加した労組活動家との学習会について回想している。

 労働者から見れば、大学生はブルジョアの子弟であり、自然と階級的に一線を画していた。本当に仲間にしてもらうには、献身的に活動し信頼されるのを待つ必要があった。
 一般学生とは違っているのだと意識しながらも、労働者を搾取している支配階級の子弟であるという一種の劣等感や罪悪感に似たものがあり、謙虚に働いた。

 竪山利忠氏の実弟、竪山利文氏は兄と同じ旧制七高から九州大に進学。東芝勤務などをへて中立労連議長になった。回顧録『遠交近攻』に、兄の共産党入りを知った実父の怒りを記した場面がある。「武士の血が流れている父は無言のまま日本刀を抜いて斬り殺す勢いだった」

治安維持法に反対して、労働団体などがデモ行進した=1925年2月、東京・芝
 竪山利忠氏の東大入学は1926年、その前年、治安維持法が制定された。「国体ヲ変革シ、及ビ私有財産制度ヲ否認セントスル」結社や運動を禁止する——。28年には、最高刑は死刑へと改正された。

 高校時代で革命を暗に意味する鶴鳴会(かくめいかい)で活動し、入るべくして入った新人会で、竪山氏が最初に駆け付けた労使紛争は、静岡県浜松市の日本楽器大争議だった。「右翼に何度も争議団本部を襲撃された。無警察状態で、自分の身は自分で守るしかなかった」と竪山氏は回想している。

新人会に対抗した右翼結社

 大争議を指導したのは、日本労働総同盟(総同盟=旧友愛会)から分かれた共産系労組「日本労働組合評議会」(評議会)だった。評議会の実質的なリーダーは、セルロイド工場の職工出身で、新人会にオルグされて労働運動へ入った渡辺政之輔氏。争議を指導した南喜一氏は、関東大震災時の亀戸事件で弟が軍隊に殺された怒りから運動家となったゴム工場経営者だった。

護送され、東京駅に着いた神兵隊事件の首謀者、天野辰夫氏(左)。興国同志会時代には東大新人会に対抗した­=1933年10月12日

 一方、日本楽器は、警察署長出身の天野千代丸氏が創業者の山葉寅楠氏から経営を引き継いだ地元有力企業だ。その長男の天野辰夫氏は東大の右翼結社「興国同志会」のリーダーとあって、内田良平氏の黒龍会や平沼騏一郎氏の国本社、大化会といった有名団体が浜松に集結した。

 ちなみに、興国同志会とは1919年、新人会に対抗して上杉慎吉東大教授(憲法学)が結成した。その後、鹿子木員信(かのこぎ・かずのぶ)九州大教授の「帝大日の会」、血盟団事件の四元義隆氏らの「七生社」に分裂する。

 堀幸雄氏の『右翼辞典』をみると、この興国同志会、顔ぶれがとても興味深い。神兵隊事件の天野辰夫、岸信介、帝大粛正運動の簑田胸喜、笠木良明、塩原時三郎、南条徳男、太田耕造、森島守人、三浦一雄の各氏ら。先述のとおり新人会に対抗して結成されたが、森戸辰男・東大助教授の論文を「危険思想だ」と排撃したことで、同会は一躍有名になった。

労働側が惨敗した浜松大争議

 この浜松大争議では、評論家・大宅壮一氏が「昭和最大の怪物」と評した矢次一夫氏も調停役として奔走していた。

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