メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

令和元年、祇園祭は1150年を迎える

薄雲鈴代 ライター

祇園祭の神輿出立

 日本3大祭のひとつに数えられる祇園祭は、八坂神社の祭礼である。

 京の町の人々は、八坂神社のことを「祇園さん」と呼び親しむ。平安時代、賀茂川の洪水や疫病に苦しむ庶民の厄除け信仰として、強烈な力で祟りを鎮める神に恃(たの)んだ。

 祇園祭の起源である祇園御霊会が催されたのは、貞観11年(869)といわれる。神泉苑に66本の鉾を立て、祇園社の神輿(みこし)が行幸し、災厄を祓う祈願をしたことに由来する。今でこそ、世界遺産二条城の南側にひっそりとある神泉苑であるが、平安時代は広大な禁苑で、天皇貴族の遊興地であり、空海が雨乞い祈祷をして龍を天空に放った聖地でもある。

 祭は、天禄元年(970)から毎年営まれるようになり、長徳4年(998)から山が出るようになった。室町時代、応仁の乱(1467~)の戦禍に遭い、祇園祭はいったん中断するが、明応9年(1500)に町衆の心意気によって復活を遂げ、現代の祭にも見る壮麗な山鉾が競い建った。そして令和元年の今夏、1150年の節目を迎える。

祇園祭に先駆け提灯行列

 祇園祭は7月1日から1カ月間続く、長丁場の祭である。今年はそれに先駆け、6月30日午後7時に八坂神社から提灯行列が出立する。四条通から河原町通を北上し、京の町の繁華街である氏子地域を練り歩き、午後8時45分ごろに八坂神社へと還ってくる。

 1150年の奉祝行事として、続いて7月6日(午後3時・4時)、7日(午前11時・12時)と、八坂神社舞殿にて七夕伝説を舞いで表現した鷺舞が披露される。

 古来、中国より伝わった牽牛と織女の物語を、祇園祭で奉納したのが起源といわれている。年に一度の逢瀬のため、天の川に桟橋を渡したのは本来鵲(かささぎ)であるが、鵲を知らなかった都人たちは、白鷺の姿を鵲に見立てて舞った。口を閉じているのが雄、開いているのが雌である。

 この鷺舞は、京都では江戸中期にいったん廃絶するが、その後津和野に伝わり、山口祇園祭に伝承されていた。そして昭和31年に、狂言師の木村正雄さんが津和野の鷺舞を踏襲し、祇園祭に復活奉納された経緯をもつ。この度も津和野に継承された鷺舞神事の里帰り奉納である。

 さらに、7月24日の花笠巡行の際には、四花街(祇園甲部・宮川町・先斗町・祇園東)の舞芸妓が華々しく巡行し舞踊奉納する。

神幸祭に3基の神輿が揃い踏み

 近年の京都ブームで、だれもがこぞって‘ホンモノの京都’を知ろうと躍起になるまでは、7月17日の山鉾巡行が‘祭のクライマックス’などとテレビのニュースで流されていた。そんなフレーズを聴くたびに、あらら違うのに、と思っていたものだ。

 山鉾巡行は、八坂の神さまを氏子の暮らす町にお迎えするための、あくまで露払いのようなものである。大切な神事は、山鉾巡行後の夕刻より始まる。

 7月17日午後4時、神幸祭の祭典が本殿で行われ、舞殿に鎮座していた3基の神輿は、舁き手によって「拝殿まわし」を3周したあと、轅(ながえ)をつけて神社から発輿する。ちなみに、神輿をささえる轅とは、神輿の外側に渡された白木の横棒のことである。これによって、

・・・ログインして読む
(残り:約1268文字/本文:約2636文字)