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「ボーっとして、何が悪い?」

何事にも100%出し切ってしまうと、次への意欲は湧いてこない

住田昌治 横浜市立日枝小学校校長

「ボーっとすることも許されない世の中」は生きづらい

 チコちゃんには叱られるかもしれないが、ボーっと生きていてもいいんじゃないだろうか。学校現場でもボーっとする暇もなく忙しい日々を送ってきたために心身が疲れ果て、病んでしまっている教職員も多い。そして、その病んでしまった教職員をケアする側の教職員も人間関係に疲れ果ててしまって元気がなくなっている話もよく聞く。今の時代、ボーっとできるのは幸せなことなのかもしれない。

 研修講師を務める時に「時間があったら何をしたいですか?」と問うことが多い。ワークシートを用意して書いてもらうと、じーっと考え込む人、煙が出るような勢いでいくつも書く人、いくつか書いてため息をつく人、全く書こうとしない人等々、十人十色様々な反応がある。 

 そして、書いた内容を共有してもらうと、「読書」「旅行」「片付け」「花の世話」「映画」「ジム」「登山」「温泉」…と続く。ある教育長に聞いてみたら「ボーっとしたい」だった。いつも案件を抱え、対応に追われていて、新しい教育に向かってチャレンジする余裕もないのかもしれない。この教育長にボーっとする時間が少しでもあったら、今よりももっといい教育施策が考えられることだろう。皆さん、ボーっとする時間、欲しくないですか。

 私は、あることがきっかけで、休みの日は休むようにしている。当たり前のことだが、休みの日に働いている人は多い。教員時代、夏休みに行った職員旅行で温泉に浸かりながらボーっとしていた。一緒に入っていた同僚が、「住田さん、明日からまた働くの? どうせ、夏休み明けから連日遅くまで働くんでしょ。だったら、夏休みはこうやって何も考えずにボーっとする時間にしたっていいんじゃない? その方が、リフレッシュして頑張れるんじゃない。どうせまた、ガンガン働くんでしょ?」とまじめな顔で話しかけてきた。

 普段からまじめな人だったが、なぜだか妙に心に響いた。「どうせ、また」というところが。そうだ、夏休み明けから「どうせ、また」たっぷり働くんだ。「休みは休んでいいし、仕事のことは考えずにボーっとして過ごしてもいいな。」と思えるようになった。温泉の効果なのかもしれないが、同僚の言葉がよく効いて、それ以後、休みの日は休み、極力ボーっと過ごすようにしている。

 そのせいか人間ドックでも引っかかることもなく、いたって健康に過ごしている。私の同年齢の校長の多くは、血圧が高かったり、内臓に持病があったりする人が多いが、きっとボーっと過ごしているおかげで健康なのだと思う。未来のために働くという人もいるが、今が健康で元気に働くことができなければ、未来はないのである。未来のために頑張るのではなく、今を健康でいい状態でいることが大切だ。ボーっとすることは決して悪いことではないのだと思う。

3刷となった拙書「カラフルな学校づくり」=住田昌治さん提供

「寄り道」って、何て魅力的な言葉だろう

 先ほどの「時間があったら何をしたいですか?」で共有されたことで、今までで一番印象に残っていて、いいなあと思ったのは「寄り道をする」だった。

 時間があったら、今までとちょっと違う道を通って帰るというのだ。普段は効率的な生き方で、家と職場を最短でつなぐことを心がけていると思う。通勤時間は短い方がいいに決まっている。わざわざ遠回りをしていく人は、仕事に行くのが嫌なのか、家に帰るのが嫌なのだろう。多くの人は、通勤がほぼルーティン化していて、無意識のうちにバスに乗り、電車に乗り、いつものルートで職場に向かう。帰りも、同じように気が付いたら家にいるというような生活を何十年もしていているのではないだろうか。

 「寄り道」って、何て魅力的な言葉だろう。子どもには「寄り道しないで帰ってきなさいよ!」とよく言う。でも、子どもは、効率なんて考えない。興味がある方向へ向かい、面白そうなところに立ち寄る。寄り道しながら楽しい時間を過ごす。結果的にまっすぐ帰るより時間はかかるが、見つけてくるものも多い。寄り道は楽しい。道草も楽しい。あの感覚を働くようになってから忘れている。

 いつもと違う方向へ一歩踏み出してみる。罪悪感? 好奇心? 期待感? 子どもの頃に戻ったような高揚感があるかもしれない。今までと違う景色が見える。今までと違う人に出会う。今まで通りではない、自分の中に変化がみられるかもしれない。変えていいんだという思い、変えることができたという小さな自信。こんなことに幸せを感じるかもしれない。ワクワクする。心に少しのゆとりがあったら、いつもと違う方向へ一歩を踏み出せるような気がする。

 「時間があったら何をしたいですか?」。今、働き方の研修で必ず聞くようにしている。それは、業務改善をして時間を生み出しても何に時間を使うかで、全然働き方が変わってくるからだ。

 そもそも、生み出した時間を何に使うか考えていない人も組織も多い。生み出した時間を自分がやりたいことをするための時間にすればいいのに、なぜか組織の誰かが決めたことをやることになってしまっている。「時間があったら」に応えるべく、時間をつくったのなら、「何をしたいですか?」に応えればいいのではないか。そうすれば、自分の働き方は確実に変わっていく。

 やりたいことをやれる自分の働き方をつくっていくのである。動機と目的と自分事にすることで、働き方は変わるのである。この話は、またの機会にしたいと思う。つい、働き方の話になると力が入ってしまうので話を戻すことにする。ボーっとするゆとりや隙間、余白、間などを、敷き詰めたり、埋めてしまったりしない生き方を考えたいと思う。

脱校長室。ここから始まる創造の部屋。授業でも使っています=住田昌治さん提供

ゆとり世代に期待

 「校長先生の存在って不透明ですよね。どんなことしてるのか分かりませんでした。でも先生の新聞記事を読んで、校長先生も大変だと分かりました。担任をやっていた時と校長では、どっちが大変ですか?」「指導案とか要ります? 先生たち、大変そうですよ」「社会に開かれた教育課程って言いますけど、学校は外部との連携は盛んなんですか? 学生ボランティアとか地域ボランティアとか入りにくい雰囲気があると聞きます。そもそも、学校の中で学級や学年が開かれてないという話も聞きますけど、校長先生どうです?」

 校長室に入って来るなり、もの凄いことを立て続けに聞いてくる。学校サポートボランティアで来てくれている大学生だ。彼らは、学校現場の多忙な現状を知り、学校の教職員をサポートする仕事をするために起業しようとしている若者たちだ。そして、リーダーは高校生だという。

 私が高校生や大学生の頃、学校現場がどうなっているか考えたこともなかった。ただひたすら部活(バスケットボール)のこと、アルバイトのこと、遊ぶことを考えて過ごしていた。自分が働く学校現場のことが話題になったことはなかったと思うが、教師になろうと思っていた割には、学校現場に関心があったわけではない。時代は変わったとはいえ、社会や職場に関心を持つことは、その後の自分の仕事や働き方を考えるためには大事なことだと思う。と今になって考えたり、話したりしている。

 現在、多くの教員を目指す学生は、率先してボランティアとして学校現場に足を運び、学校や児童・生徒を肌で感じようとしている。教育実習の時だけ学校現場を体験していた私とは大きな違いだ。さらに冒頭に書いたように、自分の考えていることを校長にぶつけてきたり、質問してきたりする度胸がある人もいる。結構たくさんいるのかもしれない。

 こんなことを言うなんて失礼な奴だと思われる方もいるかもしれないが、私は、これだけ尖がっていると面白ささえ感じ、楽しくやり取りした。その若者からは、同じ問題に取り組んでいこうとする真剣さを感じ、私も真剣に応じたのだ。こうやって言いたいことを言い、やりたいことをやるような働き方ができる若者が、きっと旧態依然とした学校を変えていってくれるのではないか、画一的な教育を変えていってくれるのではないかと期待したくなった。

 「ゆとり世代」、世間では悪いイメージで使われることが多いと思うが、ゆとりのない世代は持続不可能な社会をつくり続けるのではないだろうか。私たちは、ゆとりや隙間を感じながら、自分をケアし、他者をケアし、地球をケアする本来の生き方を取り戻さなければならない最後の分岐点に来ている。今、若者(ユース)の声に耳を傾け、ゆとりのない世代もゆとり世代も、壁を取り払って、共に持続可能な社会を創るために対話し、繋がりあっていく時だと思う。

 このゆとり世代は、どんな教育を受けてきたのだろう。一言でいうと「ゆとり教育」なのだが、一番特徴的なのは、探究的な学びを時間をかけてやってきていることだろう。教室に閉じこもって教科学習をしているだけでなく、自分が興味を持ったことを広めたり深めたりする学びの時間を過ごしていたのである。その学びの時間は、地域や企業等との連携しながら実際に体験したり創造したりする学びだった。一言で言うならば、自分がやりたいことをやっている時間であり、枠組みに囚われることなく、自由に、ゆとりをもって学ぶことができた時間だ。

 具体的な話は、次回に譲るとして、そんなゆとりのある時間を過ごしてきたのがゆとり世代だ。その若者たちが、活躍する時代が来ようとしている。今までにもそういう時代あったのだと思うが、多くは旧態依然とした教育制度の中で潰されてきた。しかし、詰込みや敷き詰めの教育は変わらなければならない時代を迎え、ゆとり世代の活躍する時が来たのだ。

ASF 遊ぶ・さぼる・ふざける

 ボーっとしているとは言わないが、昭和から平成初期(30~40年前)の職員室は、空気がゆっくり流れていた。中学校では荒れが酷かった頃もあったが、空気感としてはゆっくりだったと思う。そんな中で、今よりも自由な教育が行われていた。

 職員室の風景で覚えているのは、前の方でいつも毛筆の練習をしている教頭だ。今の教頭が見たら驚くと思う。他にやることないのかと(口には出さないが)思っていた。しかし、当然のように、筆で字を書き続ける姿は、魅力的でもあった。教頭になったら、自分がやりたいことがやれるんだと。また、ある教頭は、時間があると体育館で卓球をやっていた。職員室にいる先生を誘ったり、教室に行けないで保健室にいる子どもを誘ったりして楽しんでいた。また、ある教頭は、一人の特別支援学級の子どもといつも一緒にいて、一日中廊下の端っこに座っていた。遊び心があり、さぼり心があり、時にふざけた人だった。

 教頭に限らず、それぞれの教職員が自立していて、自分のやりたいことをやっていたように思う。ゆっくり流れる時間の中、それぞれの教職員も自分の時間の流れをもって、ゆったりと働いていた。ボーっとしていても叱られないし、授業中に公園に行ったって川に行ったって山に行ったってお構いなしだった。

 ここで、校長が出てこないのは、どこにいて何をしていたのか知らないからだ。今のように、校長の存在が学校には必要ではなかった。と思っているのは自分だけかもしれないが、校長がいるかどうか、自分の教育活動には関係なかった。みんな、自立していてやりたいことをやっているのだから、校長は大きな行事の時だけいてくれればよかったのだ。(これは全くの私見です。そもそも、教頭の時にも校長はいない方がいいと思っていたので変人なので。そして、今、校長として10年目、やっぱり校長はいなくてもいいと思っている。そういう学校にしたい)

 「宿題をさいごの日まで残しておいた時の家族と自分の反応」という画期的な夏休みの自由研究が話題になっているそうだ(※)。Instagramに投稿された夏休みの宿題。こんなことを思いつく発想も凄いが、見方によっては、遊び心、さぼり心、ふざけ心にあふれている。本人はいたって真剣なのかもしれないが、こういうことをテーマにしても怒られない、うまくいかなくても気にしない、そして、自分や家族の反応を楽しんでいる、そんな姿がうかがえる。こういうことを考えて実際にやってしまう小学生がいること、それを許す学校や家族があること、この世の中まんざら捨てたものではない。

 一方、夏休みの宿題で、キットを買って作ったり、実際は保護者がやっていたり、他力本願になっている問題も話題となったが、今回話題になっているような話があると愉快になる。枠にはめられた中でも、子どもたちの自由な発想、何をやっても怒られない環境、失敗しても許される関係性があれば、子どもは面白いことをするものだ。

 コンクールに応募したり、作品展でいい賞をとることが自由研究の目的ではない。何をやってもいいと言われた時、やりたことがある子は、すぐに飛びつくだろうが、やりたいことが見つからない子は、見つかるまで遊ぶことも認めるのが自由な研究なんだと思う。(遊びから学びへとつながっていくという考えが認められれば)やらなければならない自由研究から、自由な研究へと意識を変えれば苦しまなくてもすむ親子も多いだろう。そもそも、やりたことがないのに研究なんてできるわけない。

研究会の案内は毎回手書きでインパクトあり=住田昌治さん提供

余白を気持ち悪く思わないこと

 みんなまじめに働いて、何事にも全力で一生懸命取り組む。自分だけでなく、それを人にも求める。しかし、何事にも100%出し切って、あとは何も残っていないとなると、次への意欲は湧いてこない。次々と変わりゆく社会の中で、常にポジティブに新しいことを吸収することができるように、いつも10%くらいは余白をつくっておいたほうがいい。

 余白ができると気持ち悪くなり、すぐに埋めてしまったり、削ってしまったりするのではなく、余白をぼんやり眺めて楽しむくらいのゆとりを持ちたい。そんな生き方をしていれば、ボーっと生きているように見えても、日々自分が刷新されていくことに気づくのではないかと思う。イノベーターは、ボーっと生きている人から生まれる気がする。