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【35】後藤新平と感染症

福和伸夫 名古屋大学減災連携研究センター教授

 地震防災を学ぶ筆者にとっては、後藤新平と言えば、関東大震災後の帝都復興院総裁として帝都復興計画をまとめた人であった。だが、名古屋大学に赴任し学内の資料を見て、彼が若い時、名古屋大学附属病院の前身の愛知病院の院長を務め、感染症や細菌など公衆衛生の第一人者だったことを知った。以後、後藤の人生に興味を持つようになった。

 後藤の生年が筆者と丁度100年違うので、自分の人生と比較することが容易でもある。常に新たな課題に取り組み、独創的な成果を残したことに驚愕する。岩手に生まれ、学僕をしつつ医学校に学び、医師、官僚を経て投獄、さらに、植民地経営、国造り、人づくりと、波乱万丈の人生を歩んだ。

 後藤が残した名言、「金を残して死ぬのは下だ。事業を残して死ぬのは中だ。人を残して死ぬのが上だ。」は心に響く。新型コロナウイルスと付き合う中、後藤に学ぶことは多い。後藤の出生地、岩手県奥州市立後藤新平記念館の後藤新平略年譜を参考に、彼の人生と感染症、災害の関りを振り返ってみる。

後藤新平(中央)=1928年11月18日、京都市下賀茂の京都植物園

岩手に生まれ医学を志し愛知県病院で公衆衛生を学ぶ

 後藤は、1857年6月4日に、今の岩手県奥州市、水沢城下に生まれた。直前には、1854年安政東海地震・南海地震、1855年安政江戸地震が起き、1856年には安政の台風が襲来する。1858年には、飛越地震、安政の大獄、安政コレラの蔓延が、1859年には水沢で大火があった。そんな中、後藤は成長し明治を迎える。

 1869年、12歳のときに、後藤は水沢旧城内にできた胆沢県庁の給仕に採用された。胆沢県は宮城北部と岩手南部にまたがる県で、副知事に当たる大参事の安場保和が、地元の俊英5人を給仕として雇った。その中に後藤が居た。後藤は安場の学僕となり、その後、安場が岩倉使節団から帰国して福島県の県令(知事)になると、1873年に福島県第一洋学校に入学し、翌年、福島県にあった須賀川医学校に転じた。

 1875年に安場が愛知県令に転じると、安場を追って名古屋に赴き、1876年に愛知県病院に務める。安場は洋式病院・医学校の新築に着手し、ドイツ人のお雇い外国人教師ローレッツを招聘した。ローレッツは、愛知県の衛生行政の指導も行った。後藤は、ローレッツから西洋近代医学を学び、衛生行政のスペシャリストに育った。その後、大阪や名古屋の病院に務めた後、愛知病院に戻り、1881年には、24歳の若さで愛知県医学校長兼愛知病院長に就いた。現在の名古屋大学医学研究科長・名古屋大学付属病院長に当たる。

衛生官僚になりドイツで細菌学を学ぶ

 1883年、後藤は、内務省御用係、衛生局照査係副長に転じ、この年、安場の次女・和子と結婚する。翌年には衛生局牛痘種継所長を兼務する。感染症対策の責任者である。1885年には、衛生局第二部長に昇進し、1890年にドイツ留学のため横浜を出帆した。

 ドイツでは、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見した近代細菌学の開祖・コッホに師事した。コッホの助手はペスト菌の発見者の北里柴三郎だった。まさに、後藤は、

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