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コロナ報道の「物語」を見いだせないジャーナリズムの危機

ジャーナリストが念頭に置いてきた「物語」が描ききれない未曽有の事態。

大石裕 慶應義塾大学

 「ニュースの物語」という言葉を使って、ジャーナリズムについて論じる機会が増えてきた。ここで言う「物語」には、大きく分けて三つある。第一は、時系列的な出来事の開始、展開、終結という「物語」である。第二は、ある出来事が他の出来事を生み出したという、原因と結果の「物語」である。第三の「物語」は、出来事にかかわる人や集団を、善と悪に区分けするというものである。

 ジャーナリストは一般に、意識するか否かは別にして、こうした「物語」を念頭に置きながら、取材し、ニュースを作り上げている。そして、解説を行い、論評もする。その過程で「物語」の変更を余儀なくされることもあるが、そうでない場合の方がはるかに多い。「物語」は必ずや、前例によって構成されているからであり、それはまたジャーナリズムの組織や業界、さらには社会全体の中で共有されているからである。ジャーナリストが既存の「物語」から抜け出してニュースを作るのには多大なエネルギーが必要になる。

 本稿では、今年前半の最大のニュースとなった新型コロナウイルスに関するこれまでの報道を、「物語」の観点からみていきたい。

見通せない「コロナ危機」の終結

 まず、出来事の開始、展開、終結という「物語」に基づいて、「コロナ報道」を考えてみる。

 新型コロナウイルスの感染が日本社会で本格的に話題になってすでに半年近くがたつが、近い将来にこの危機が消滅すると言っている専門家はほとんどいない。それどころか、「第2波」の到来を予想する声の方がはるかに大きい。

 おそらく、危機は容易に収まらないであろう。ニュースの、そして出来事それ自体の物語の終結は、まだまったく見えないのである。

 とはいえ、歴史を振り返れば、いかなる感染症もどこかの段階では終結するはずである。ただし、今、その時の社会の姿を予測するのは難しい。「コロナ後」という言葉だけは飛びかっているが、それは「コロナ前」とどう異なっているのだろうか。

 たとえば、働き方をめぐり、テレワーク社会になるとか、フレックスタイムの勤務形態が定着し交通機関の混雑は緩和されとかいった観測が、メディアでは提示されている。その一方で、学校の「9月入学」の議論は瞬く間に消え去っていった。「教育改革」の目玉として喧伝され、このようなタイミングでしか、教育のグローバリゼーションに見合う大改革はできないと主張されていたにもかかわらず。

 「コロナ危機」の終結を見通すことは難しく、「コロナ後」の社会は依然として不透明なままである。

90席あった客席を45席に減らした劇場。コロナ後を見据え、試行錯誤が続く=2020年6月2日、盛岡市肴町の風のスタジオ

様々に拡散するコロナ危機

 次に、原因と結果の「物語」について考えみたい。

 人々は深刻な問題が生じた理由、問題の解決が順調に進まない原因を知りたがり、メディアの情報に目を凝らす。新型コロナウイルスの発生をめぐっては、米中間で信じがたい中傷合戦が繰り広げられた。トランプ大統領はこのウイルスを「中国ウイルス」と呼び、中国の強い反発を招いた。他方、中国は米軍の陰謀説まで持ち出し、反論を加えた。

 傍から見ると、滑稽感さえ漂う大国間の“論争”であるが、インターネット上に飛び交う真偽ない交ぜの情報が両国間の不信感を一層増大させ、多くの人々がこれらの情報を信じ、あるいは惑わされた。

 コロナ危機のような重大な問題の影響力はけた外れである。連鎖的に他の問題や争点と結びつくことで、結果的に社会が抱える様々な問題をあぶりだす作用もある。

 中国やヨーロッパに続いて深刻なコロナ危機に見舞われた米国では、社会の奥底に巣くっていた人種差別問題が、警官の暴行という許しがたい行為によって一気に噴き出した。米国では人種間でのコロナ感染率と経済格差との相関関係を通じ、人種間の格差・差別が厳然と存在すること、それが社会的亀裂の主要因の一つであることが再認識された。

 この問題のきっかけとなった警官の暴力シーンの映像は、テレビやネットで繰り返し流され、大きな衝撃を与えた。全米で抗議の声があがり、各地でデモも発生したが、それらに関するトランプ大統領の一連の言動に対しては、米国内のみならず諸外国からも強い批判が生じ、それは大統領選挙にも影響を与えそうである。

 日本でも似たような状況が生じた。

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