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旧軍港市・呉市で70年前にあった住民投票の物語

今井一 ジャーナリスト。[国民投票/住民投票]情報室 事務局長

旧軍港市転換法施行から70年

 旧軍港市という言葉をご存知だろうか。

 これは、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4市を指す。いずれもかつてはのどかな海辺のまちや村だったが、明治時代、1884年の横須賀を皮切りに旧日本海軍の鎮守府が開庁してからは、4市とも軍港都市として発展した。

 それが、太平洋戦争直後に平和産業港湾都市に変容する。そして、その変わり身を促し支援するために制定されたのが旧軍港市転換法(以降、軍転法)で、1950年6月28日に公布・施行されてからちょうど70年になる。

 軍転法は廃止されず今もなお効力を有してはいるが仮死状態だ。海上自衛隊や米海軍の巨大な基地を擁している旧軍港4市の実態を見ると、「この法律は、旧軍港市を平和産業港湾都市に転換することにより、平和日本実現の理想達成に寄与することを目的とする」(軍転法第1条)という規定に反していると言わざるを得ない。

 半世紀にわたって続くそうした実態は、「戦力不保持」「戦争放棄」を憲法で標榜しながら、一貫して軍備拡張を進め日米軍事同盟を強めてきた私たち日本国民の姿を象徴的に表している。

敗戦後の1945年10月に撮影された呉軍港。連合国軍に接収される。軍港内には海軍の艦艇が停泊する。左奥には航空母艦「鳳翔」が浮かぶ。右端は空襲で炎上した呉市

軍転法は憲法95条に基づいて制定された

 法律は国会で可決されれば、原則的には制定・施行されるのだが、軍転法のような地方特別法は、憲法の規定により、可決後にその法律が適用される自治体で住民投票にかけ住民の承認(賛成多数)を得なければ制定できない。

憲法第95条
一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

 この憲法95条の規定に則り、これまでに広島平和記念都市建設法、首都建設法など16の地方特別法(「改正法」を含む)に関して、国会が可決した後に住民投票が行われた(19件:記事末尾に一覧)。旧軍港4市では1950年に軍転法の是非を問う住民投票が実施された。その軍転法に関して、呉市の事例を基に誕生の経緯と仮死状態となった理由を解説する。

「戦犯都市」として罵られ

 呉を舞台とした劇場アニメ『この世界の片隅に』のなかでも描かれている呉海軍工廠は、東洋一の規模・技術水準を誇る軍需工場として「大和」「長門」といった大型戦艦をはじめ数多くの巡洋艦、潜水艦などの建造を担った。

 まさに皇国日本の要衝たる軍需産業都市だった呉。だが、それゆえに米軍による呉への攻撃は容赦なく、隣接する広島市への原爆投下の10日前には計2千機の艦載機がすさまじい空爆により呉軍港内にあった多数の艦艇を爆撃して沈没させた。

呉海軍基地に放置された特殊潜航艇 「蛟龍」(全長26m直径2m)。1945年10月に米海軍が撮影したもの(U.S. NationalArchives)

 戦後、呉市は財政的に存亡の危機に直面するのだが、原爆でやられた広島には同情を寄せる他都市の人々も呉に対しては冷ややかで、「戦犯都市」「軍閥の遺児」と罵られたりもした。

 そんな瀕死の呉を救ったのがGHQによる軍艦解体の指示だった。終戦当時、呉鎮守府に在籍していた艦船は、戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦など計143隻で、このうち内地の海域に所在するものは、すべて撃沈し解体するか連合軍に引き渡すようGHQに指示された。

 米軍による空爆で海軍工廠はかなりのダメージを受けたがまだ使える設備はあった。かつて軍艦を造っていた工場を使ってその解体作業を行うことに「屈辱的だ」と背を向ける人は少なく、大きな雇用を生むGHQのこの指示を呉市は歓迎し、市の財政は随分と潤った。

 ただし、解体作業がほぼ完了する1948年度の下半期に呉市は深刻な不況に見舞われる。市は、軍港を自由な商業貿易港として転換活用するしか復興の道はないと考え、旧日本海軍施設の払い下げなどを求めて閣僚・国会議員への働きかけを強めたが、「呉市だけを特別に贔屓できない」と突っぱねられていた。

池田勇人から教えられた地方特別法という妙手

 だが一筋の光が差し込む。

 1949年1月の衆院選挙で呉市を含む旧広島2区で当選した池田勇人は、新人ながら第3次吉田内閣の大蔵大臣に就任。その池田に、当時の呉市経済部長・中邨末吉は「特別扱いをしてほしい」と掛け合いに行った。以下は中村が『中国日報』(1955年7月6日付)に寄稿した回想記の一部だ。

 …池田蔵相をたづねて旧軍用財産を無償で呉市に下さいという書類を持ち込み、旧海軍を失った市民の立場を説明して陳情したところ、……池田蔵相は怒ったような顔で『ワシャ、いま忙しいんだ、いくら呉地方出身だからといっても呉の大蔵大臣ぢゃあないんだ、しかし大蔵大臣は国の法には従わなければならんから特別法をつくったらどうだ』と立ち上がりながら『そんな法律をつくることにはワシもできるだけ協力しよう』と言い残してくれた…

池田勇人=1961年
 「特別法をつくったら」という池田の助言を生かし、呉市は「特別法案建議趣旨書」を作成して国会へ働きかけた。と同時に、横須賀、舞鶴、佐世保の旧軍港3市を特別法制定の運動に巻き込んでいき、呉市が立案した「旧軍港市転換法案」の制定を推し進めることで4市が一致する。

軍転法が国会で可決

 1949年12月、衆参両院72人の議員から成る旧軍港市転換促進委員会が結成され、吉田茂、池田勇人、尾崎行雄、芦田均、森戸辰雄ら政界の大物議員が顧問として名を連ねた。

 翌年4月、法案は参議院、衆議院とも共産党議員を除く全議員が賛成して可決されたが、反対討論を行なった共産党の砂間一良議員の主張を簡略にまとめるとこうなる。

 平和産業都市の構築には賛成だが、例えば横須賀市の場合など旧軍用施設の総延べ面積の56%もが米軍の施設として接収されており、平和産業都市への転換などできるはずがない。そして、転換に適用される都市計画法、特別都市計画法は、かつて軍用都市を建設するための法律であったのだから、その適用は新たな軍港都市の整備拡充を図るものになる。

 この討論中、本会議場は野次と怒号で騒然となった。多数の議員は、共産党が難癖をつけていると解したようだが、その2か月後に朝鮮戦争が勃発すると、共産党が示した杞憂は現実のものとなっていく。それについては、あとで触れる。

いよいよ住民投票

 [軍港から商港へ切り換えて文化都市を建設しよう。全市民が賛成に投票を!]

 鈴木術市長は呉市民にそう訴えた。市の復興のためには、これまでのような軍と共生する都市から平和産業港湾都市への転換(軍転法第1条)を図るしかなく、その困難な道のりを進むためには軍転法に記された「事業の援助」(第3条)と「特別の措置」(第4条)「国有財産の無償譲渡」(第5条)が必要だった。

 軍転法の第4条では転換事業に対する国の特別の助成を定め、大蔵大臣が旧軍用財産に関して特例的な処理を行うことを認めている。また、第5条では転換事業を進めるうえで大蔵大臣が「必要性あり」と認めた場合には国有財産を公共団体に無償で譲渡しなければならないと定めた。

 呉市はこうした恩恵を得るために、なりふり構わず市民に「賛成」への投票を呼び掛ける強力なキャンペーンを展開。投票日の6月4日は参院選挙も行われたのだが、選挙は脇役となり、街は住民投票一色となった。

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