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「マスク着用」が映し出す「大学教育の敗北」

半田智久 お茶の水女子大学教学IR等センター教授

 僕は大学教員として数十年を過ごしほどなく定年を迎える。この仕事を振り返ると大きくふたつにおいて敗北を喫した。ひとつは教育、いまひとつは教育制度。いずれも敗因は同根だが、ここでは現下の社会状況にも直結している前者を取り上げ敗北の弁を述べる。

 まず何に対する負けか。大学教育の学校教育に対する負けである。だから、この敗北はむろん自分の仕事を含めたうえでの大学教育全般を指す。そういうものは神的裁定のような傲慢な言表になる。それは自覚のうえである。

 さて、大学教育を学校教育に対峙させて語る? おや、大学教育は学校教育ではないの、と思われるかもしれない。だが両者ははっきりと違う。なぜなら大学は学校ではないからである。

 むろん法令下では大学も学校の範疇にある、が、それは法がお得意の擬制に近い。事実、大学が学校でないのは大学が略称ではないこと、多くの人が知るように大学校は他にいくつもあり、それら機関と大学はあきらかに異なるからである。

 その呼称に異質性を垣間みるなら、大学はわざわざ「校」を外すことで門を閉じることをもってひとつの世界を囲い込むことをしない場であることを宣している。

 僕は毎新学期の最初の授業でこのことを必ず確認する。皆は未だ学校に来ていると思ってはいないか。ここは学校ではない。大学です。そして皆は未だ自らを生徒という蔑称をもってそれと知らずに卑下しているかもしれない。しかしもはや皆は、いたずら(徒)に生きている者ではない。みずから学び生きる存在、学生になっている。この先は常にその学生という自覚をもってキャンパスに集ってほしい、と。

AN NGUYEN/Shutterstock.com

大学はいわれたとおりにしないことを身につける場だ

 この学校時代を卒業して大学へと入り、生徒から学生へと生まれ変わる事態は、青虫から蝶になるかのまさにメタモルフォーゼである。そこから大きな羽を広げて花から華へと飛び回るごとく「初めての学び」が始まる。その学びは学校教育の破壊と超克、それによって拡張していく世界観の展開になる。

 端的なところでは学校教育で教えられてきた正解、○、正しいことは、ことごとく疑問に付され、いずれもが暫定解にすぎないことを知る。それは以降の人生を貫く「自分の頭で考え活動する」ことの開始である。解には△しかない。それを自由とか自律といった概念と併せて知ってゆく。

 よって、研究者を名乗る者が「しかじかは絶対にあります」などといってしまったら、それは大学教育の失敗をあらわにしていることになる。資格を剥奪する以前に反省すべきことが突きつけられているのだ。

 正しさへの執着は正しいことが基調にある学校教育に長く晒される結果、身に染みついてしまう。なぜ学校教育は正しさを軸にするのか。それは学校教育の第一の目的が、あれこれと勉強する教科目の知識の内容を知ったり考えたりすることにあるわけではなく、まさに学習指導要領に明記されているように「知識を正確に身につける」ことにあるからである。ここに特段引っかかりを感じないとすれば、それはまさに学校教育の成果の顕現である。

 この「正確に身につける」換言すれば「いわれたとおりにする」というのは文字どおり、教科書、学校、先生がいわれたとおりにである。内容は二の次である。なぜなら、そこに通う子どもたちは全員、徒(あだ)に、つまり無駄にうわついて生きている者たちだから、ひたすら規律を正し、心身ともに訓育することが最優先だからだ。学校の目的はその遂行・完遂にある。極端には書いてあることが間を違えていても、そのとおりに覚えることを強いる。

 すこし横道に逸れるが同じ観点の知能観に立つと、人工知能は人間など及びもつかぬものになりつつあるから、近いうちにシンギュラリティを迎えて人びとはAI に従属することになるなどといった見解も登場する。が、それは幻である。人間にとって最も厄介な人工知能は人間以上に間違い、言い訳をし、都合よく嘘をつくがそれを見抜けない存在である。それはすなわち人並み以上に当てにならないAI だから、それが優秀であるほどに誰も相手にしなくなるだけである。

 話を戻そう。学校教育に対して大学での学びは正反対である。いわれたとおりにしないことを身につける。

 ただちに頭から鵜呑みにせず、である。権威つきであれ○×の裁断に出会ったら、まずその暴力性を感受し、そのうえでその根拠を求め、自分でよく考える。わからないところは共に考えていく。そして暫定解の位置を探る。

 しかし、仮にそれが大学教育であるとして、その実践はかように机上で綴れるほど容易ではない。まだ頭が硬化していない青年期に大学教育があることは一見、その営みにふさわしいように思える。

 だが現実はそれ以前の幼少年期12年間以上にわたって施される学校教育の直後にある大学教育は、強靱な慣性とも惰性ともとれる習慣の影響が及ぶ。しかも皮肉なことに学校教育を優秀にこなしてきた人たちほど、その成功体験をいつまでも適用しつづけようとする。

 大学のなかにも学校教育とさして変わらず大学を学校と思い、学生を生徒と呼ぶような場や時間もありうる。だから、そうした心地よさを求める学生はそこで過ごし、学校化された試験をよくして同類の世界へと就職し、十分に学校化された社会で学校化された政策づくりなどに勤しんで現下にみるような見事な再生産に従事していく。

 それはそれでよいではないか、全部が全部突破に向かうというのもおかしい。だが、そうなるとここでいう大学教育は社会不適応や道化や道外を察知させるだけになる。いわば映画やコントのカタルシスに留まる。

 頭の脱皮と乗り越えの役回りは大方空回りし、見事な学校教育を前に手をこまぬき、大学はあれど大学教育なしとぼやくことになる。大学教育が通じないのは何より自分たちの努力が足りないからだろう。そう思いながら、日々精進しやってきたつもりであった。たびたびの手応えも感じつつ過ごしてはきた。が結局は敗北を受けとめるにいたった。

 それを決定づけたのはこの感染症騒ぎでのマスクである。

道徳の時間の延長

 公共の場に出ると、この半年「マスク着用のご協力」である。銀行やデパートでは着けていないと恐ろしい形相をしたマスクマンに取り込まれ入店を阻止される。

 僕はマスクをしたことがないからたいへん不便である。たぶん僕はかなりお人好しで、誰かから協力を依頼されると断れないたちである。またたぶん人並み以上に神経質で、たとえば学校や病院にいくと、しばしば入るのにスリッパに履き替えさせられるがこれがとてもできない。だから自分用のを持参する。

 そんな僕がこの騒ぎではマスクを着けていない。

 着けない理由はごくシンプルである。そのシンプルすぎるご協力の表現とシンプルすぎる人々の対応が、申し訳ないが僕にはどうみても漫画にしかみえない。だからとても真面目にご一緒する気になれないのだ。

StreetVJ/Shutterstock.com

 僕にとってマスクといえば、第一にはデストロイヤーやマスカラスのそれなのだが、まさかそのような着用が求められているわけではあるまい。だが、その他のマスクであれば銀行でもデパートでも、最大のお笑いは皆で大笑いしにいく狭い演芸場でさえも入れる。通気性にすぐれたファッショナブルなそれをつけて、一万分の数ミリメートルといわれる今般騒ぎのウイルスはスルーするという規格が明記されているそれでも、着けていれば協力になる。まるでいかさま裁縫師と裸の王様の話のようである。

 成分表示や賞味期限のごとくそんなに細かなことにはこだわらない、のかもしれないが、今般の相手はいうまでもなく細かすぎる。ウイルスからすればザルも同然だが、それでもそれが入った飛沫はマスクで捕捉されるという。それで了解されるところが危うい。

 原発やオレオレと同じでここで思考が停止すれば、単にことばのうえで解しているだけで、現実の話に及ばない。だが、僕らはその現実に暮らしている。現実は長時間にわたりそのマスクを着用し、当のウイルスをはじめ、空中に浮遊するそれらを集塵するかのように捕捉し、それを口や鼻に密着もさせつづける。仮に3時間も着用すればその間2000回以上も呼吸する。呼気で十分に水分を含むマスクはなお一層の捕捉力を強めていく。

 しかも多くの人はそのマスクをしながらも声が聞こえるようがんばってしゃべる。だから、顔面下部全体で集塵されたさまざまなものは、こしとられるものは出入りし、体内から排出したい異物はたまたま引っかかった微少物質も含め繰り返し再取り込みされる。下痢をしたときに下手に下痢止めを飲むと、その原因を身体に囲い込む状態になりそれが増殖性のものであれば悪化を助けてしまうことになるのと同様の事態が想像できる。当のものにとってこれほどの甘やかし装具はない。

 むろんそのようなことは百も承知だ。だが何もしないよりはましでしょうといった反応もあろう。つまりみなし協力、若者言葉でいえば、なんちゃってマスクなのかもしれない。「子どもでも着けているのに、なんであんたはマスクしないんだ」といってスーパーマーケットでつきまとってきたおじさんマスクマンがいいたかったのはそういうことなのだろう。それが今のモラルだエチケットだ、という。道徳の時間の延長である。

恰好だけつける呼びかけには応じがたい

 でも、大学ではそれと反対のことを語っている。すなわち、そういうことがモラルに従うことだと了解されることでモラル・ハザードが高まって、皆で阻止しようとしていることを反対に促通させてしまう恐れが強まるということである。マスクをして入口で手に液体をまぶせば、よろしいのなら、見た目には安心なのかもしれないが、当のウイルスからすればマスクをした宿主に連れられてご機嫌に自由往来である。

 対策のためのマスク着用を語るなら、その目的が果たせる規格のマスクをはっきり示す必要がある。それができないのはその規格のマスクでは日常生活に支障を来してしまうからである。それで苦しくなって倒れても皆でやり遂げましょうというのなら、その本気さには苦しんでも応じよう。だが、一人で苦しんでみても正当性誇示の馬鹿迷惑な話で、それなら着けずに悪者扱いのほうがまだましだ。

 そういうわけで、恰好だけつける呼びかけには応じがたいのだ。いうまでもなく擬制が成立するのは人間のあいだでのご都合においてである。今般の問題は生物と無生物のあいだのような存在とのやりとりなのだから、人間社会でのみなしなど通じない。

 見回せばほとんどの人が生真面目にマスクをし、それで半年も経つのに感染が止まらないのはなぜなのか、

 それはごく一部のいうことを聞かない僕らのせいなのか、あるいはその協力していることが事実上通用していないためではないのか。今の状況をみれば、その答えはプラグマティックにあきらかではないか。

 「ふりのしあい」以上の難も感じる。マスクは笑顔を隠し、視線を強調するものだから、どうみてもおどろおどろしい。これほど見た目にわかりやすい徴表はない。

 性質はすこしずれるがこれは赤狩りや星印と似通っている。そのため、余計に単に「マスク」というものの着用の有無で何かの判別をなす行為が戯れごととはちがった具合に真剣になされると、その真面目さに対して強い抵抗感を覚える。同時に脳裏に浮かぶのは百年にも及ばぬ前に、ものの考え方の違いだけで捕まり獄死されたという方々や、その種のことを題材にしたいくつもの映画で活写されたシーンの数々である。

 僕らはそうしたものを見聞きして「なんて馬鹿げたことを」といっていたはずなのに、その舌の根乾かぬうちに「○○との戦いに打ち勝つために一致団結」を呼びかけて怖いマスク姿になっている。その怖い姿が相互に必要以上の恐怖感を感染させ、なにかを麻痺させている気がする。

 こういうことをいうと、「あなたはこの感染症で何人の方々が尊い命を落とされ、今も重症で苦しんでいる人たちがいることを知らないのですか」などとマスク越しに怖い顔をする人がいる。

 その尊い命である。多くの僕らは日常、命が眼前で失われる場面に出会うことは滅多にない。だから、現実を見失う。だが、たとえば当のそれで命を落とされた方々の約8割にあたる70、80歳代の人たちは、そもそも「この国」で「毎日」平均、およそ2000人が命を落とされているのである。

 その日々の数はちょうど僕が勤務する大学の学士課程全学生数にあたる。そのうちの半数以上は癌、急性心筋梗塞、脳卒中による他界である。だから三大疾患のほうが遥かに大きな課題だといいたいわけではない。この年齢層になると死は否応なく接近していて、想像以上に多くの病の原因が大方他界へ赴く機縁になりうるということだ。それがヒトという生物の自然な日々の現実である。

 だから特定の何かによる累計の死亡数をことさらに日々メディアトップで表示し続けることは著しく偏向した恐怖の扇動というしかない。それほど死を身近に確認しあいたいなら日々他界される方の三大死因とその死亡者数も並べ表示すべきだろう。特定の何かよりも別のあれこれの死に至る病で遥かに膨大な数の人たちも苦痛と譫妄のなか、この世を去っているのだから

 また、日々重症で苦しんでいる患者にしても同様であることは容易にイメージできよう。そうした数を毎朝見聞きしたうえで日々を暮らすなんてたまらない。だから僕らはそうしたことは感じながらも、あえて看過し、できるだけ笑顔をみせて、明るく振る舞ってきたのではなかったか。

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