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次亜塩素酸水とは何だったのか

きわめてわかりにくく不可解だった国の対応

小波秀雄 京都女子大学名誉教授

 新型コロナウイルス感染症のパンデミック発生以来、次亜塩素酸水をめぐる議論は、国民の中にもやもやした気分を抱かせてきた。ウイルス対策に有効なのか無効なのか、安全なのかそうでないのかについて、流行が始まって日にちがたっても明快な結論が提示されず、経済産業省、厚生労働省、国民生活センター、さらには文部科学省をも巻き込んだ混乱が続いてしまった。

決着を引き伸ばし、あいまいな態度を取り続けた国の行政

経済産業省が次亜塩素酸水の噴霧についてまとめた資料。WHOの見解として「消毒剤を人体に噴霧することは、いかなる状況であっても推奨されない」と書かれている

 だが一方、医学的・科学的な見地からは、事がらの性質は比較的単純であり、WHO(世界保健機関)、CDC(米国疾病予防管理センター)などの国際機関の基準と勧告に照らしても、確実にいえることが一つあった。消毒剤を人体に噴霧することはいかなる状況であっても推奨されない(WHO・経産省仮訳より)などとして、人が吸うような使用は明確に不可としていたのである。次亜塩素酸水等はいうまでもなく消毒剤であり、この種の文書で「推奨しない」というのは禁止と同様の強い表現である。

 科学的にみても、次亜塩素酸類は強い酸化作用をもつ物質で蛋白や脂質などの生体物質の化学結合を破壊する。それだからこそウイルスを破壊して不活化するのであり、デリケートな生体機能をもつ呼吸器の粘膜に対しては、有害であることを前提にして曝露を避けることは当然といえる。トランプ米大統領は4月に「治療のために消毒薬を注射したらよいのではないか」と「暴言」を吐いたことがあったが、即座に多数の医療関係者の批判を浴びた。ある医師は「塩素系漂白剤を吸い込むのは、肺にとって確実に最悪な行為だ」と強い調子で述べている(4月24日付BBCニュース日本語版)。

 しかしながら、我が国の一連の対応はきわめてわかりにくいものであった。経過を追ってみよう。まず、4月15日のニュースリリース「新型コロナウイルスに対する消毒方法の有効性評価を行います」で、経済産業省はアルコール以外の消毒方法の選択肢を増やすためとして、独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)に対して実証試験を開始することを発表した。

 しかし、世界の科学研究の流れの中で、過去のSARS流行の後にコロナウイルスに対する消毒剤の有効性を検証する数多くの研究が進められていて、まとまった総説が2月に公開されていたのである。それによるとアルコール類、次亜塩素酸ナトリウムなどの有効性はありとされている。また界面活性剤である石けんや洗剤の有効性についても、多数のサイトで情報が公開されていたのである。

 このようなアカデミックな知識の蓄積があるにも関わらず、国の行政機関が有効性の検証を一からやり直すというのは、緊急事態の中でとりあえずの判断を示すべきであることを考えれば奇妙な話である。新しいウイルスとはいえ、脂質膜のエンベロープをもつRNAウイルスというコロナウイルスの特徴は持つのであるから有効性は同様であろうとこの総説にも書かれているのだ。

 ともあれ、その後2カ月余りに及ぶいくつかの経過発表を経て、NITEの試験結果を取りまとめる形で、経産省は消毒方法の有効性評価を公表した(6月26日付経済産業省ニュースリリース「新型コロナウイルスに有効な界面活性剤及び次亜塩素酸水を公表します(最終回)」)。それによると次の界面活性剤が新型コロナウイルスに対して有効とされた。

直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム、アルキルグリコシド、アルキルアミンオキシド、塩化ベンザルコニウム、塩化ベンゼトニウム、塩化ジアルキルジメチルアンモニウム、ポリオキシエチレンアルキルエーテル、純石けん分

 また、問題の次亜塩素酸水については、有効塩素濃度35ppm以上のものが有効とされた。なお、次亜塩素酸ナトリウムについては従来から有効性が確認されているとしている。これらについては、専門家の多くはほぼ自明のこととして予期していた内容だった。何のための時間稼ぎだったのか。

 ともあれ、これで消毒剤の有効性については、国としての最終的な結論は出た。ところが、これらの消毒剤の安全性については、このニュースリリースは触れていない。有効かどうかだけではなく、使って安全なのか、安全に使うためにはどのような配慮が必要なのかという情報なしに、国民にとって自分を守るすべはわからない。肝心の情報が経産省のニュースリリースからすぐには読み取れないのである。

 そこでよく見ると、このニュースリリースから関連リンク・資料としていくつかのリンクが張られている中に、「厚生労働省・消費者庁と合同で、新型コロナウイルスの消毒・除菌方法について取りまとめました」と題する、厚労省サイドで取りまとめたと思われるニュースリリースが出てくる。

 この文書はウイルスへの対処法に短く触れたものであるが、このページにリンクされた「『次亜塩素酸水』を使ってモノのウイルス対策をする場合の注意事項」と題する関連資料のPDFファイルを開くと、文字通り目立たないように、「人が吸入しないように注意してください。人がいる場所で空間噴霧すると吸入する恐れがあります」と書かれている。また同じページからは業者向けの関連資料「『次亜塩素酸水』の使い方・販売方法等について(製造・販売事業者の皆さまへ)」もリンクされており、空間噴霧についてさらにあいまいな表現ではあるが注意喚起がなされている。

 なお、上記ページからリンクをたどると、「新型コロナウイルスの消毒・除菌方法について(厚生労働省・経済産業省・消費者庁特設ページ)」というページがあり、最後の「5. (補論)空間噴霧について」に、次亜塩素酸水について他の文書と同様に、噴霧を推奨しない旨の記述がある。ところがその末尾に、次のようにかなり強い表現で次亜塩素酸ナトリウムの空間噴霧を行わないことを求める文章がある。

 特に、人がいる空間への次亜塩素酸ナトリウム水溶液の噴霧については、眼や皮膚に付着したり吸入したりすると危険であり、噴霧した空間を浮遊する全てのウイルスの感染力を滅失させる保証もないことから、絶対に行わないでください。

 これを見ると、次亜塩素酸ナトリウムは絶対に駄目だが、次亜塩素酸水については必ずしもそうではないとも解釈されかねない。あいまいなことこの上ない話である。どうしてこんなにもカフカ的な分かりにくさになっているのだろうか。

学校での次亜塩素酸水噴霧をめぐる文科省の不可解な動き

 教育機関に対する情報の周知についても、国は不可解な動きを見せた。文部科学省初等中等教育局健康教育・食育課は6月4日に「学校における消毒の方法等について」と題した文書を全国の小中学校と高校に送付した。次亜塩素酸系の消毒剤の使用は慎重に行い、手指消毒や噴霧は行わないことが明記されている。ところが、しばらくしてそのPDF文書は削除されてしまい、URLをクリックしても「お探しのページは見つかりません」と表示されるだけになってしまった(現在ネット上で見られるのは宮城県庁のHPに掲示されているもの)。そして6月16日には別の文書が

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