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コロナがこの世に出現したわけ~仏教からの視点

自己とは何ぞや? ~皆で大物に成ろうよ~

藤森宣明 ハワイ・ホノルル・パロロ本願寺開教使

自己を問うて

 「自分とは何か?」 こんな問いをもったこと、ありますか?

 コロナがこの世に出現した理由を考えると、私は、この問いの答えを明確にせよと言いたいがために我々人間界の前に現れてきたのでないかと、このごろ本気で思うようになってきました。

 「おまえな、哲学者にでも、なったような気になってるんでないのか?」って言われそうですね。はい、皆さん、この際だから、一緒に哲学者になりましょうよ。私は、本気でそう思っているのです。

 そういえば、昔、ウイスキーの宣伝で、「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか、ニ・ニ・ニーチェかサルトルか、みんな悩んで大きくなった、大きいわァ大物よォ、おれもおまえも大物だァ」と歌われていたのはご存じですか? 

 ソクラテスさんは「汝自らを知れ」といいました。そう今回は、悩みながらこの問い「自己とは何か」を解明してみましょう。一人だけ大物になるのでなくて、あなたもこの私も大物になって、コロナウイルスの前に「自己とは○○だ」と答えを持って、みてもらおうではありませんか。

自己懐疑

 この歌のCMがはやったのは1976年だそうです。偶然ですが、今から振り返ると、私が自己発見に大きな転機となる経験をしたのはそのころでした。

 私は1958年、高度経済成長のまっただ中の日本に生まれました。小学校の時にはテレビが入り、大きなステレオ、冷蔵庫など、どんどん、どんどん便利なものが出現してきて、これらのものを追い求めて、それらを持てることが幸せな自分なのだと信じて生きていました。

 そんな自分ですが、この歌の流行った19歳のころ、インドへ放浪の旅にでたのです。この放浪の旅が自己を問う私の転機となりました。

 インドには、物があまりありませんでした。旅の最初、どうやって時間をつぶそうかと毎日考えていました。ガンジス川で有名な街ベナレスに滞在した時のことですが、そこでの時間が「自分とは何か」を考えるきっかけをくれました。

Roop_Dey/Shutterstock.com

 ガンジス川の麓では、死を待つ老人が多く目に入りました。葬儀はいたるところでやっており、死体が目の前で焼かれて、家族が泣き崩れていました。その川には、動物や人間らしい死体も流れていて、その横で普通に沐浴し、洗いものをしている人の姿が何度も目に入ってきました。大変ショックでしたが、私は、その光景に吸い込まれて、一泊1~2ドルの安宿に泊まり、毎日、ホテルとガンジス川を往来していました。

 その安宿には、ヤモリがたくさんいました。私が生まれ育った北海道にはヤモリはおりません。恐ろしく感じて、日本からもってきた殺虫剤をヤモリにふりかけ、次から次へと殺したのです。翌朝のことですが、私の顔は腫れあがっていました。蚊に大量に刺されたのです。ああ、ヤモリは蚊を食べてくれていたんだ、ヤモリがいる理由がそれなりにあったんだ、と知らされたのです。

 私は、物にふりまわされている自分を発見し、それでいいのかと自問しました。いつまでも好きなように生きられる自分と思って生きてきてた私に、ガンジス川が死を目の当たりにさせ、そう問いかけたのです。そして、ホテルでのヤモリ殺しによって、自分、人間が一番えらいと思って生きてきた自己中心性が問われだしました。インド放浪によって、私は自己懐疑へと投げ出されたのです。

日本人としての自己を浮き彫りにされて                                                                                                                                                         

 もう一つ、自己を問われた出来事がありました。皆さんは、日本人としての自己を浮き彫りにされた経験がありますか? 

 ちょうど日本がバブル期を通りすきだ1994年のことです。私は、東北タイのドンヤンという森にいきました。森には大木が繁っていて、日本企業がそこから木材を買っていました。そこに住むプラチャックというお坊さんから学ぶために、私は、その森にいきました。

タイのお坊さんプラチャック氏。手前にあるのは筆者が所持した荷物=1994年2月、カンボジアとの国境付近で(筆者撮影)

 プラチャック氏は、元ギャンブラーで、借金の取り立てにいったときに銃で撃たれたのですが、生き残ったので出家したという、元ヤクザのような面白い経歴を持ち、そして、森にある大木に、黄色い衣を着せて、他のお坊さんや村人たちと共に、樹の前で、お経を読んで樹に出家させるお坊さんとして有名でした。

 しかし、タイ政府は、商業林を売ると経済的に潤うので、そんなプラチャック氏を何度も逮捕しようと試みていました。

 私が驚かされたことの一つには、プラチャック氏は、お経に書いていることを頭で理解するのでなく、身体を通して読むお坊さんだったことです。プラチャック氏は小学校しかでていません。「お経は単に頭だけで読むのではない。虫や樹々と共に救われると経典は説いているだろう」と私に言いました。森の中にいて、実際に樹や虫と共に生きる生き方を教えてくれたのです。

 たとえば、寝る前に一人用のテントを張るのですが、その前に、テントを張る場所を入念にたたいて、虫さんに、これからここで寝ますので、ちょと場所をあけてもらうようにお願いすることを教えてもらいました。

 私は、自分の背中に、そして両手に、自分の私物ばかりを持って歩いていたのですが、プラチャック氏にその在り方を問われました。「あなたは、両手をすべて自分のために使っているだろう。片手を空っぽにしてごらん。そしたら、他の人、生きとし生けるもののために、一つ手を使えるだろう。手は常に空っぽにしておかないと」と言われました。

 日本では、日本の仏教者は大乗仏教で、東南アジアの仏教は小乗仏教だと習っていました。大乗仏教とは、他と共に救われることを使命としている教えです。しかし、日本で頭で習ったこととは正反対に手をふさいでいた私は、自分のためにだけ生きている。しかし、プラチャック氏は、他の人、人間ばかりでなくて、生きとし生けるもの、木々と共に救われようとして実際に生きていました。この体験で、私は日本人として、仏教者としての自己を問われたのです。

生まれたままの自己を問う

 アメリカは、哲学や思想が不毛な国と言われます。実際、コロナの出現でハワイ大学は財政が厳しくなり、カットする候補にあがっているのが、思想や平和などの施設です。今、宗教学部を廃止する話が出始めています。平和を創る学生や地域の人達を育ててきた、ハワイ大学にあるマツナガ平和インスティチュートも廃止の対象にあがっています。

 コロナ出現は、この方向を望んでいるのでしょうか? もちろん科学的根拠を引き出すための科学は大切です。科学的根拠まで無視して政治をすすめたアメリカ大統領もいました。でも、困難の中で、生きる根拠を、生きる力を、生きる方向を世に示して貢献できるのものこそ、思想、哲学、宗教、文学なのではないでしょうか?

 我々が生きている今、危機意識をあらわにして、国連事務総長は「人類は、自然に対して戦争をしかけています」と訴えます。「自然との平和」を取り戻すため、平和を想像する教育はとても大切です。コロナは、コロナとの平和関係の構築を望んでいるのではないでしょうか?

 思想不毛の地と言われるアメリカですが、ウイリアム・ジェームスという哲学者が出ています。彼は、人間は二度生まれる。それは、「生まれ落ちたままの人〈once-born〉」と「生まれ変わる人〈twice-born〉」に分けられると言います。

 彼の哲学で考えると、私はインドでの体験、タイでのプラチャック氏との出会いを通じて、「生まれ落ちたまま」であったことを問われたのです。自己を疑い、「生まれ変わる」自己をみいだしなさいと言われたように感じたのです。

 コロナに「自己とはなんぞや」と問われ、その答えとして、私がインド放浪以前、タイでの体験以前の「生まれ落ちたまま」の自己を提示したら、「そんな答えではダメだ」と言われるでしょう。みなさんはどうですか? 生まれたままですか? それとも、生まれ変わった自己として生きてますか?

仏教の示唆する自己道をならふといふは

 仏教で自己というと、お釈迦様は「縁起」という教えに目覚めました。しかし、お釈迦さんが目覚めたこととは異なって、一般に私たちは、この「縁起」を、何か嫌なものに出くわしたら「縁起」が悪い、良い事が起こった場合は「縁起」がいい、というように使います。

 この使い方でいえば、コロナに出くわした私たちは「縁起」が悪いということになります。「福は内、コロナは外」なんてやってるのも、こんなとらえ方ですよね。はたして、コロナは、私たちに「縁起」を悪くさせたくて、出てきたんでしょうかね?

 私は、そうではないと確信します。きっと、お釈迦さんが目覚めた「縁起」の教えを理解しなさい、とコロナは言いたいのだと思います。

 では、仏教のいう本当の意味の「縁起」とは、何か?

 自分というものは、さまざまな「縁」に依って、私なる自己は「起」こっている=成り立っている、と言っているのです。もう少しいえば、親の縁、ご先祖の縁、いつも頂いている動物さんたちの命の縁、野菜さんたちの命をいただいている縁によって、自己なる私は、成立している。樹々の縁がなければ、私、人間は、生きていけない。自分は、自分で生きているのでなくて、いろいろな命の支えによって生きているのだ、目にみえないバクテリアさん、ウイルスさん、地球上にいるものが支えとなって生きている命なんだ、と。

 簡単に言えば、私どもが、よく使う、「おかげさま」ということであります。

worradirek/Shutterstock.com

 この「縁起」の教えは、日蓮、法然、栄西、道元、空海、最澄、親鸞など、どの宗派の祖師も共通して同じように理解されています。

 たとえば、道元は「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり。自己を忘るというは、万物に証せらるるなり」と言っています。仏教は、自己を見出すことだ、自分を主張して自分と言っているけど自分を忘れなさい、といいます。そして、自分というのは、よろずの物、いろいろな命から成り立っているものだと教えてくれます。すなわち、仏教は、きわめて狭い個人の人間中心の命(生まれ落ちたままのいのち)ではなく、大きなサイクルのつながりを生きるいのち(生まれ変わったいのち)なんだ、他の生きとし生けるもの、バクテリア、ウイルス、木々等とつながって生きているいのちが本当の自己だ、と言っているのでしょう。

 コロナに、これら仏教のいう答えをもっていくと、きっと「そうだ、いいね。目覚めだしたか」と言ってくれるのではないでしょうか。

生まれ変わる自己

 上記のように自己とは、つながってあるもの、「生まれ変わる」とは「つながった命に目覚めること」なんだと思います。それではここで、私に「生まれ変わる自己」を教えてくれた人や事柄を三点、皆さんと分かち合いたいと思います。

 一点目は、ハワイアンのとらえる自己観に出会ったことです。

 私は12年間、ハワイアンとアイヌの交換プログラムを、北海道とハワイで主催してきました。北海道で交流プログラムをしたときの話です。円陣になって、よく自己紹介をしあいました。

北海道標茶町にある憲徳寺の河野住職がアイヌ、ハワイアン交流プログラムを受け入れて本堂と宿泊施設を提供してくれた=2006年6月(筆者撮影)

 ある一人のハワイアンが北海道で話した自己紹介を紹介します。彼は、先ず、山の話をします。山が彼の祖先をどれだけ育んできたかを述べました。そして、川が自分の地域の方々、おじいさん、おばあさん、家族をどれだけ養ってきたかを述べました。それから、海でどれだけお世話になったかを述べました。最後にやっと、自分の名前を述べます。

 普通の自己紹介では、自分の名前を述べて、どんなすごい大学を出たとか、自分がどれだけえらい地位を獲得したとか、どんな大きい会社で働いているとか、どれだけお金を稼いでいるかとか、自分を主張しますが、山河海とつながっていることこそ本当の自己主張なのであって、人間社会の中で誰かと比較する自分というものは大変狭い、と言っているように聞こえます。

 コロナに、ハワイアンの自己観についての答えをもっていったら、「よいね。あなたは、私の住んでいる大地を尊敬してくれてるんだね」と言ってくれるのではないでしょうか?

 二点目は、日本の伝統に出会ったことです。

 お年寄りからいただいた手紙を読んで、「これだ」これが自己なんだと、私の自己観を再認識させられました。

 近代教育を受けた私は、西洋の手紙の書き方に影響を受けています。最初に「元気ですか」と述べ、次に私の健康状態を述べたり、私がどれだけ今人間界で成功しているとか、どれだけ偉い地位を得ているとか、肩書がここまでになったとか、または、家族はどうだとかを書いたりして、今回お手紙した趣旨を述べます。

 ですが、お年寄りがくれた手紙は、先ず、季節が述べられます。山がどんな色になっている、木々はどうだ。空気はどんな感じか、季節が自分にもたらしているものは何かを述べて、そして、やっとお手紙を書いた趣旨を述べます。

 この日本の伝統的な手紙の書き方には、自然の中で生きている自己があってこその自己なんだ、という自己観が表れてます。日本人は、もともと季節の移り変わり、自然の中で自己を捉える感性を持っていたのではないでしょうか。そうだ、ふうてんの寅さんは「てめいはっしますところ関東平野で生まれ」と、自己主張からではなく、平野から起こった自己から言い始めますよね。すごいですね。

 コロナに、この答えをもっていったら、「よいね。やっとあなたは、ふるさとを尊敬するように回復したね」と言ってくれるのではないでしょうか?

 三点目は、野菜畑であります。

コロナ禍、パロロ本願寺の無農薬畑で働く門徒さん=2020年7月、ハワイ(筆者撮影)
 私は、畑をやっています。つながった自己を実践で気づかせてくれる畑なんです。私がやっている畑の方法は、リサイクルをベースにした無農薬ガーデンです。

 バクテリアに食べ残しを栄養価のある土にしてもらって、木々の出す枯れ葉、オフィスで出す紙も土に戻し、再生して、みみずや、たくさんの虫たちの力を借りてできている野菜ガーデンなんです。まさに、バクテリア、土の中に住んでいる虫達に、私の食べ残しを食べてもらって、土を豊かにしてもらって、野菜を育ててもらっています。

 ですから、彼らによって、野菜が与えられていると強く感じています。毎日の畑仕事で、つながっているいのちを感じています。

 コロナに、畑でつながっている自己を見出しているよと答えたら、きっと「よいね。土を大切にする生活、他の生き物を尊敬する生き方いいね」と言ってくれるのではないでしょうか?

コロナの喜ぶ自己とは何か?

 「自己とは何ぞや?」という問いへの答えを「我思うゆえに我あり」「人間は、万物の長だ」と答えるのは、どうでしょうか? 人間中心の世界に生きていると他を見下して生きてゆくことになりかねません。

 コロナに、こういう答えをもっていったら、「おまえは、生まれ落ちたままの小物だ」と言われるのでないでしょうか? ならば、山河海とつながった自分、自然の中で季節を感じられる自分、土の中にいるたくさんの虫やバクテリアとつながった自分、そんなつながった命に目覚め、生きられるように生活して、私もあなたも「生まれ変わり」ませんか。「ソクラテス、プラトン、みんな悩んで大きくなった」の歌のように、コロナの時代を生きる私たちも、皆で悩んで、そんな生き方を実践して「大物」になりませんか?

 私たちが「生まれ変わった大物」として生きることができたら、コロナも人間の前にこのような形で現れなくなるのではないでしょうか。

 皆さんは「自己とは何ぞや」との問いに対して、コロナの前にどんな答えをもっていきますか?