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お金とは、つながりをつくる道具である~コロナ禍の今こそ、仏教経済学のススメ

お金とは何か? どう使うのか?

藤森宣明 ハワイ・ホノルル・パロロ本願寺開教使

コロナが問う、経済の在り方

 経済か? いのちか?

 私達は、コロナウイルスが出現して以来、この問いに揺り動かされてきました。 いったい経済は、どういう方向に行ったらいいのか? どこの国も、感染者の数が増えたら経済活動に規制を加え、感染者の人数が減ったら経済活動を再開することを繰り返してきました。

 このような繰り返しを、コロナが私どもにさせている意味を思うと、いのちとお金のあり方について考えなさい、いのちを生きている我々にとって、 お金とは何なのか、お金をどのように使ったらいいのかという問いへの答えを見つけなさい、と言われているように感じます。

 あなたにとって、お金とは何ですか? お金をどのように使ったらいいですか?

Kachka/Shutterstock.com

社会科学としての経済学から、宗教からみる経済学へ

 最近、「科学的根拠」という言葉をよく耳にします。確かに私もコロナ対策には、科学的根拠は必要と思います。

 アメリカの前大統領トランプ氏は、科学的根拠なしに、コロナは風邪のようなものだと言って経済活動を重要視してきました。それは大きなミスリードだったと私も怒りを感じていました。

 経済は、社会科学という科学の分野になっています。科学としての経済という見方が主流でしたが、これからは、宗教からみる経済も必要な時代になると思います。

 スペイン風邪で亡くなった社会科学者マックス・ウェーバーは「プロテスタントリズムと資本主義の精神」をテーマにして宗教とお金の関係を科学的に研究しましたが、これからは、キリスト教の世界から見て経済とは何なのか、資本主義とキリスト教の関係はどういうものか、宗教から経済を語る時代が始まったのではないかと思います。

 キリスト教から、どんな経済観をうちたてるのか? イスラム教からどんな経済学をうちたてるのか? 仏教からどんな経済学をうちたてるのか? 

 私は、お坊さんをやっているので、仏教の視点から「経済といのち」について答えを見つけ出したいと思います。

これまでの仏教者の経済観

 私をはじめ仏教者は、これまで、経済について語ることを避ける傾向がありました。どうしてでしょうか? 

 私が思うに、これまでの資本主義経済システムに、仏教者も呑み込まれて、仏教のもつ経済観を述べるチャンスがあまりなかったからだと思います。

 コロナの出現で経済が問われている今こそ、仏教の経済学とは何なのかを語る時がきたと思います。「仏教経済学」という言葉は、あまり知られていません。お坊さんも知らない人が多いので、みなさんは知らなくても安心してください。それくらい、我々仏教者が経済への関心を示さなかったということです。

仏教経済学とは

 「仏教経済学」とは、イギリスの経済学者、シューマッハが提唱したものです。

 彼は、1955年に経済コンサルタントとして訪れた仏教国ビルマで、仏教者の簡潔な経済生活にカルチャーショックを受け、 気づいたことを「スモール・イズ・ビューティフル」という本に記しました。そこで語られる「仏教経済学」は、これまでの「資本主義経済学」でもなく、「共産主義経済学」でもありません。

 シューマッハは言います。「仏教徒の生活がすばらしいのは、驚くほどわずかな手段でもって 十分な満足を得ていることである。現代経済学者には、これが非常に理解しにくい。『生活水準』を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人より『豊かである』という前提に立って、年間消費量を尺度にするのがつねである。 仏教経済学者に言わせれば、この方法は、大変不合理である。そのわけは、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである」と。

 お金をたくさん得て、たくさんの物を手に入れ、古いものは捨てて、新しいものをもっともっと手に入れることが幸せなのだと信じてきたが、そうではない経済学があった。大航海時代で外国に行って、もっと物を集めることを経験して、産業革命を経験し、もっとスピードアップして新しい物を手にいれることを目指して生きてきたヨーロッパ人であるシューッマッハは、ビルマのお坊さんから経済の方向転換を見せられたのではないでしょうか?

 「吾唯知足」(われ、ただ、たるを、しる)という「つくばい」が京都、竜安寺にあるのを知っていますか? シューマッハがビルマで発見したのは、日本的にとらえると、これでないかと思います。これの意味は、ただ、今、ここ自分のまわりにあるものに感謝して、満足して生きることにうなずけることこそ、大切な経済学だと。

 そういえば、こちらのお寺パロロ本願寺では、毎年年末の恒例行事として、自分の一年を省みる法要をやっています。いくつかの問いを参加者に分かち合い、参加者はメディテーションをしながら、その問いに答えを見出すという法要です。

 この度は、コロナの出現でオンラインでやりましたが、新たな問いに「コロナの出現を経験して、どのように新年は生きたらいいと思いますか?」との問いを加えました。一通りのメディテーションを終えた後、最後に感想を分かち合うのですが、そこで、参加者の一人が「シンプルに生きることだ」「必要でないものと、必要なものを見極めて生きることが大切だと学んだ」と言ってました。「必要のないもの」すなわち、まだまだ、ぜいたく品を追い求めて生きようと思っていたが、それはいらないのだと。「必要なもの」とは、すなわち、ここにあるものに感謝して生きることだと言いたいのでしょう。

 私は、この答えを聞いたとき、コロナの感染者が出始めた初期のことを思い出しました。ハワイでは外出禁止令が出たのですが、買い物は許されていたので、私がやたらと買い物に行くことを楽しんでいると、妻から「そんなに買い物に行く必要ないでしょう」と指摘されたのです。この参加者の答えは、コロナが導きだした自然な仏教経済学だなと思いました。仏教経済学は、シンプルに生きること。「より、もっと」の生活でない方向を示唆しているように感じます。

コロナ禍で観光客のいないワイキキ(筆者の妻藤森史絵さん撮影)=2020年6月24日

早くまっとうなお坊さんになりたい

 日本の仏教には将来はないと大変危惧し、海外の宗教者からもっと学んで日本仏教を再生しなくてはならないと訴えていた、宗教評論家でもあり日蓮宗のお坊さんである丸山照雄という人がいました。

 1980年代から丸山さんは、宗派を問わず、日本仏教者連帯会議「INEB」という会を仲間と共に立ち上げ、 将来の日本仏教のあり方を憂い、同じように憂いているお坊さんと共に海外に学びに行くことを始めました。私もその会に加わらせてもらいました。この動きは、仏教者の中では、新しい国際的な動きで「行動する仏教者」と言われています。                                      

 この会に加わったのは、宗派にとらわれず、浄土宗、天台宗、真言宗、日蓮宗、浄土真宗、禅宗、日本山妙法寺などのお坊さんでした。私をはじめとして有名なお坊さんなどは一人もおらず、ただただ、これから仏教者としてやっていく自信もなさそうな、どこか暗さをもっていながら、光が見えないだろうかと憂いている無名のお坊さん方の集まりでした。

 バブル時代に私はこの「INEB」に加わったのですが、その頃、世間一般の人は、私達お坊さんを、自分の為に何かをしてくれる存在ではなく、 資本家の一部のように見ていると感じていました。表面的には尊敬されていても、影ではお葬式すると、これだけお寺さんに払ったとか、お車代をこれだけ払わされたとか、戒名にこれだけ払ったとか、まるでお坊さんをお金を吸い取る人達としかみてくれていないなと感じ、もやもやした気持ちで生きていたのです。

 この「INEB」に参加した地方の無名のお坊さん達も、そうしたお金を吸い取るだけの者としてみられることにうんざりしていて、みんなの役に立てる、意味のあるお坊さんとして生きたいと思って参加したように思います。「妖怪人間ベム」の漫画に、妖怪が「早く人間になりたい」と言う言葉がありましたが、INEBのみんなも「お金を吸い取るだけのお坊さん」から 「早くまっとうなお坊さんになりたい」と思っていたように思います。

東南アジアで、資本主義でないお寺の活動を学ぶ

 そこで、私は、丸山さんをはじめINEBの先輩達に導かれ、東南アジアの行動する仏教者達のもとへ学びにでかけて行ったのです。 シューマッハが、ビルマで仏教経済学を学んだように、私も東南アジアで資本主義とは違う、お坊さんの活動に出会いショックを受けました。

 タイのお寺では、「米銀行」をやっているお坊さんナーン和尚に出会いました。どういう活動をしていたかというと、干ばつになると農民は食べられなくなり、やむなく娘を売り出すということがしばしばあったそうで、お金に困窮した民衆のために、米が豊かに収穫できた時には村の米をお寺が預かり、干ばつがあったり生活が大変になったりしたら米を農民に渡すというような活動をしていました。

ナーン和尚と村人=1994年2月、タイ東北地方スリンのターサワーン村のサーマッキー寺(筆者撮影)

 また、タイのカンボジア国境添いにある森で樹に出家させるプラチャックというお坊さんに入門して学ぶために森に入りました。樹を商品とみる政府、企業があります。しかし、プラチャック氏は、お経には「樹と共に救われる」と書かれてある。 樹は我々にいろいろと教えてくれる仏さんだと言って出家させていました。

 民衆の苦悩やいのちときちんと向き合う真っ当なお坊さんに出会って、私は、資本主義経済と仏教の見方は違うんだということに気が付きだしたのです。それ以後、仏教と経済の関係は大切な問題になりました。

日本仏教が問ういのちと経済

 宗派によって経済の理解に違いはあるでしょうが、コロナの出現によって、これからのお坊さん達は、生き生きと経済やお金についてものを申しだすのではないかなと思います。禅をしながら、お金とは何ぞやという公案もでてきそうな気がしてワクワクもします。民衆の皆さんが「金を吸い取る妖怪」とみていたお寺さんが、「お金とは何か、お金をどう使うかを教えてくれる人」にみえてくる時代がくると予感します。学校で仏教経済学が教えられる時代も近いかもしれません。

いのちといのちの呼応の経済学-親鸞の経済学

 このように経済のこと、そしてメインテーマのお金とは何か、お金をどう使ったらいいかを考えていると、 浄土真宗で言えば、私には、親鸞が書いた日常家庭でも読まれている正信偈の冒頭の「帰命無量壽如来」(きみょうむりょうじゅにょらい)の教えがお金について示唆してくれている、と思うようになってきました。

 この「帰命無量壽如来」の教えは、個々のいのちが分断化されている中、 つながるいのち「無量寿」として生きて再生してくださいという仏の呼び掛けです。いのちといのちが分断化されている関係をつなげる関係に回復するようにお金を使いなさい、と仏は呼び掛けている。親鸞はそう示唆していると私は捉えます。まさに仏教は「お金とは、つながりをつくるための道具」であり、「つながりを作るために使われるべき」と示唆していると受け取れます。

 親鸞が今生きて現代の言葉で語りかけるなら「いのちが分断された関係があるでしょう。 お金はいのちといのちがつながる回復の道具として使いなさい、いのちといのちが呼応できるよう再生のために使いなさい、と仏は呼び掛けているんだよ。 それが私が言う帰命無量壽如来なんだよ」と言うと思います。

 経済は、分断するためのツールであってはならない。つなげるためのものにしなさい。「 つながるいのちの経済学」こそ、親鸞が示唆する経済学だと確信します。

分断化された経済学から、いのちといのちがつながる呼応の経済学へ

 コロナとの出会いで、分断された関係を再生するためにお金がどう使われたらいいのか、 以下思うところを、4点お分かちさせてもらいます。

 一つは、分断されているのは、人間と自然の関係ではないでしょうか? 

 現代まで人間の生活をひっぱってきたのは 資本主義経済です。地球では我々人間が長であると信じこんで、自然を見下し、お金もうけのため、人間の便利さ追求のため、 地球を痛めつづけて、川を汚し、海を汚し、山を切りくずしてきました。我々人間は未開の地をどんどん開発して 、野生動物を我々人間の近いところにもってきたことで、コロナウイルスの出現を呼び起こしました。

 また、資本主義経済は、産業革命を生み出し、化石燃料の使用は、二酸化炭素濃度を増加させて、地球温暖化をもたらしました。 それが、北極南極の氷を解けさせて、やがてそこからまだ我々の遭遇していないウイルスが出現するだろうと多くの科学者が指摘します。次のウイルスが現れる可能性を示唆しています。

 コロナウイルスの出現は、我々人間に、分断してきた自然との関係を回復しなさいと言っていると思います。 ですから、お金は、人間が自然や動物たちのいのちと呼応する、つながった関係を回復するために使われることが求められているのでしょう。 具体的には、お金の使い方を、過度の開発から、自然を再生する方向に変えるべきであります。 原発からソーラー化へ、化石燃料から再生可能エネルギーへ移行する経済学が求められます。

コロナ禍で静かになったヒルトンホテル近くのワイキキビーチでは、アザラシがくつろいでいた=2020年8月

 二つは、分断されているのは、人間と、ウイルス、微生物、バクテリアとの関係だということです。

 日本の菅義偉首相が今も 「今後人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証として、完全な形で東京オリンピック、パラリンピックを開催したい」と言っていることは、私には信じられません。「ウイルスは悪い」もので、「人間はウイルスを撲滅しなければならない」と言っているのでしょう。一国の首相が分断化をますます進めていく方向に向かっているとしかみえません。

 ゴリラの研究をしている山極寿一氏は「地球は、細菌の惑星、ウイルスの惑星。我々人間が主人公でない」と言っています。 ウイルスに打ち勝つためにお金を使うのでなく、ウイルスと共生していく関係を再構築するためにお金を使うべきではないでしょうか?

 三つは、コロナの出現で、ますます国と国の分断が露呈してきたということです。 これまでのトランプ大統領はコロナ前から自国優先主義を打ち出し、国際的協力よりも自国を重んじてきましたが、 コロナの出現でますます他の国々も余裕がなくなり、自国優先主義がはびこりだして分断化を助長しています。

 そんな中、フランスの経済学者ジャック・アタリ氏は「利己主義、経済的な孤立におちいってはならない。 たしかに各国・各地域の経済的な自立は重要だが、孤立は危ない。 バランスの取れた国際的連帯が必要。パンデミックという深刻な危機に直面した今こそ、 『他者のために生きる』という人間の本質に立ち返らねばならない。協力は競争よりも価値があり、 人類は一つであることを理解すべき。利他主義という理想への転換こそが、人類のサバイバルの鍵である」といいます。

 アタリ氏は、「分断する経済」から「つながる経済」へ転換する必要を訴えているのでしょう。 アフリカなど第三世界や南半球でコロナの感染者が増えたら、北半球にあるアメリカ、ヨーロッパ、 日本なども感染者が増えるでしょう。アタリ氏が言うように、自国ばかりにお金を使うのでなく、 他国の人達にも使う、「他者のために生きる」ように使う。そんな「いのちがつながる経済」が求められています。

 四つは、これまでの資本主義は、人間間の格差を助長して、お金持ちと貧乏人との分断を作ってきましたが、これからの経済は、お金持ちと貧乏人の分断をつなげるようにすることが求められるということです。

 コロナの出現は、これまでにない行政によるお金の使い方を誘発しました。経済的に生活が大変な方々への支援です。 一時金の配布もそうですが、職を失った方々への大胆な失業保険の支援、日本では考えられないでしょうが、 ハワイではパートタイムワーカーにも失業保険を提供し、失業者には500ドルのデビットカードを渡してレストランで使用できるようにもしました。これは、失業者と経営が大変なレストラン業界の人々の支援になります。

 行政による支援を嫌ってきた資本主義大国アメリカがいのちのため生活保障を打ち出してきています。 スペインを始めとしていくつかの国はいのちがまっとうできるように、ベイシックインカムを導入し始めたと聞きますが、 貧しい人達がいのちをまっとうできるように「いのちがつながる経済学」をこれからも進めることが求められます。

 また、すばらしいことに、お金に余裕のある方々の中にも、貧しい人々のいのちを憂い、つながる支援をする人々が現れてきました。 お金に余裕のある人達に、お金を、いのちをつなぐために支援してくださるように働きかけることも、 いのちをつなげる経済に必要な仕事ではないでしょうか。

友達に投資しよう

 日本の国会議員が自分の権力を保持するために、お金を使ってつながろうとしていますが、そうした縦のつながりでなく、横のつながり、友達になるつながりが求められます。

 行動する仏教者の運動を立ち上げた人にベトナムのテクナットハーンという人がいます。ハーン氏は、友達に投資をしようと言います。銀行にお金を残しておいてもどうにもならない、友達に投資しましょうと呼びかけています。

 私にとってこの友達とは、先にあげた、一つ目の自然であり動植物であり、二つ目にあげたウイルス、バクテリア、微生物であり、三つ目の他国の人々であり、四つ目の生きるのが大変な貧しい人々であります。

 お金を銀行に置いて増えると喜ぶ私もいますが、そこから踏み込んで、銀行にあるお金をこれからは友達に投資する「いのちといのちをつなぐ経済学」に移行することが求められているのではないでしょうか? 

 お金は、つながりをつくる道具です。分断された関係を回復するためにお金が動き出す経済学が今こそ必要です。コロナの出現は、そんなお金観を持ちなさいと言っているように強く思うこのごろです。

 あなたにとってお金とは何ですか? お金をどう使われますか?

Paul shuang/Shutterstock.com