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多面体の「猛将」

【3】ジョージ・S・パットン大将(合衆国陸軍)

大木毅 現代史家

 オールド・ファンには懐かしいアメリカ映画『パットン大戦車軍団』(1970年公開)のオープニングは強烈である。巨大な星条旗を背にして、パットン将軍が現れ、物が映るほどに磨きあげられたヘルメットや長靴、乗馬鞭、象牙の柄の拳銃がクローズアップになる。ついで、パットンは兵隊言葉で語りだす。ここで観客は、麾下の将兵に擬せられるのだ。

 その内容は、すさまじいまでに好戦的な勝利至上主義である。名優ジョージ・C・スコットの好演も相俟って、観客は、なるほど、パットンは名にし負う猛将だと印象づけられる。当時のアメリカ社会に流布していた将軍のイメージを凝縮した、巧妙な演出であろう。

 しかし、かかるパットン像(それは、本人が意識して広めた自画像でもあるのだが)は、実のところ、この歴史的存在の一面だけを切り取っているにすぎない。彼の人となりを仔細に追ってみれば、パットンが、いわば複雑な多面体であることがわかる。意外なことではあるけれども、「猛将」にふさわしからぬ、繊細な部分があることがあきらかになるのだ。本稿では、そうした別の面に注目して、将軍の生涯を概観していくこととしたい。

良家の子弟

1953年にアメリカで発行されたパットンの記念切手 Arkady Mazor / Shutterstock.com

 のちに合衆国陸軍大将となるジョージ・スミス・パットン・ジュニアは、1885年11月11日、カリフォルニア州サン・マリノにあった、1800エーカー(約730万平方メートル)の敷地面積を誇る「ウィルソン・パットン」牧場で生まれた。

 実は、パットンは、その粗野な言動から想像されるような、叩き上げの指揮官などではない。南部の名門の家柄で、裕福な一族の御曹司だったのである。その先祖は、1769年ごろに新大陸に渡ってきたスコットランド人であった。それが商人として成功し、財を成したのだ。ところが、南北戦争で南部連合に与したことから、一時窮乏したものの、1866年にカリフォルニアに移住したことをきっかけに、再び家運を盛り返していたのだった。また、パットン家は、多くの軍人を輩出した一族でもあった。

 その家の総領息子であるジョージは、当時の名門家庭の慣習のまま、学校に行かず、祖父や両親、伯母、家庭教師に、さまざまなことを教わって育った。昼間は、乗馬や剣術、ライフル射撃、夜は『イーリアス』や『オデュッセイ』、プルタルコスの『対比列伝』(いわゆるブルターク英雄伝)などを読み聞かされるのが、彼の日課だったのである。

 かくのごとく、何不自由なく育ったかにみえるパットンだったが、ただ一点の陰りがあった。文字の読み書き学習が著しく遅れていたのだ。かつてのパットン伝のなかには、この点を指摘して、彼は失語症だったのではないかと疑う向きもあったが、これは、システマティックではない家庭教育の欠点が反映されただけのことだったようで、青年期に克服されている。ただし、幼少年期の文字学習の遅れはあとあとまで悪影響を残したとみえ、パットンの書簡などにしばしば綴りの間違いがみられるのも事実だ。

 ともあれ、11歳になったパットンは、私立の「スティーヴン・クラーク少年学校」に通うことになった。初めての学校生活は6年間続く。そこでは、頭の良い子で、軍事史の書物を広く読んでいるという評判を取った。この時期、彼はもう軍人になると心を決めていたのである。

 1903年、パットンは、ヴァージニア軍事学校(ミリタリー・インスティテュート)に入学した。アメリカには、正規のウェスト・ポイント陸軍士官学校以外にも士官学校があり、ヴァージニア軍事学校は、そのなかでも名門である。さらに翌年には、ウェスト・ポイント陸軍士官学校に転じる。けれども、パットンの成績は芳しいものではなかった。数学が不得手で落第し、一年生をやり直すはめになったのだ。だが、パットンは座学こそ並の成績だったものの、教練には秀でており、やがて落第生の汚名を返上した。2年目以降は成績良好で、1908年には生徒隊副官に任命されている。

青年将校パットン

 1909年に、同期生103名中46番で士官学校を卒業したパットンは、貴族的で陸軍の花形である騎兵科の少尉に任官した。最初に配属されたのは、イリノイ州フォート・シェリダンの第一五騎兵連隊だった。騎兵将校時代のパットンの事績としては、まず、1912年にストックホルムで開かれたオリンピックに、近代五種競技の選手として出場、好成績を収めたことが挙げられよう。また、新しい「1913年型騎兵サーベル」のデザインにも関わった。陸軍で制式採用された、この騎兵刀は、それゆえ「パットン刀」と称されるようになる。つまり、青年将校パットンは、陸軍内部で急速に頭角を現していたのである。

 パットンが初めて実戦を経験したのは、メキシコの革命家パンチョ・ビリャに対する討伐作戦だった。1916年に米墨国境を越えて、ニュー・メキシコ州コロンバスを攻撃してきたパンチョ・ビリャ軍に対し、ウッドロー・ウィルソン大統領は討伐軍派遣を決定した。これを聞いたパットンは、討伐軍司令官ジョン・J・パーシング准将に直接頼み込み、副官に任命してもらった。というのは、当時、彼が所属していた第八騎兵連隊は出征部隊に組み入れられていなかったから、従軍しようと思ったら、からめ手より割り込むほかなかったのだ。

 こうして、士官学校卒業記念に両親がティファニーで買ってくれた懐中時計を携え、メキシコに遠征したパットンは、1916年5月14日、生涯最初の戦功をあげた。3両の装甲車で捜索に出たパットンは、パンチョ・ビリャの護衛隊長フリオ・カルデナスが、ある牧場に潜伏しているとの情報を得て、そこを急襲したのだ。パットンは、なんと自らコルト回転式拳銃を抜いて、カルデナスほか1名を射殺したのである。その死体を装甲車のボンネットにくくりつけ(狩猟の獲物を馬車で運ぶ際のやり方にならったのだ)、司令部に凱旋してきたパットンを見たパーシング准将は、「われわれの陣営にも、

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