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五輪を外交の場とするのは本末転倒だ~北京冬季五輪の外交ボイコット問題(下)

そもそも開会式の各国首脳招待をやめよ

小田光康 明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所所長

北京冬五輪の外交ボイコット問題(上)より続く。

 「五輪が国や政治体制、法律を根本的に変えることができると期待することは、全く誇張された期待である」。このバッハIOC会長の発言は、現実的にはその通りかもしれない。

 筆者はチベット問題が大きくクローズアップされた2008年の北京大会を大会前から取材をした。開幕前に長野市内で行われた北京五輪の聖火リレーの会場では、チベットの支援者らのデモの前に大勢の中国人留学生がはだかり、巨大な中国の国旗を振り回してそれを阻止しようとしていた。

長野市内の北京五輪聖火リレーで、チベット問題に抗議する人々に厳重な警備体制が敷かれた=筆者撮影長野市内の北京五輪聖火リレーで、チベット問題に抗議する人々に厳重な警備体制が敷かれた=筆者撮影

 この異常な小競り合いが日本国内で行われているのに、中国人留学生の人垣ができて、聖火リレーを観に来た日本人がそれに近づくこともできないありさまだった。この留学生団体は中国政府に支援されたものだとの証言もある。この間に日本の警官隊が入って、まさに中国の支配層と抑圧された少数民族の分断構造が映し出されていた。

 大会期間中、北京市内の公園でデモをしようとしたチベット族とその支持団体はあっという間に警察官に連行された。その様子を撮影しようとした筆者はどこからともなく現れた複数の私服の公安警察官に取り囲まれて取材を阻止された。また北京市内にある低所得者層の地域一帯は即席の壁に覆われて、そこに存在しないかのように扱われていた。これらから五輪開催の理念を感じるのは難しい。

 当時の国内マスコミも以下のように同様の論評を掲げた。

 「『人間の尊厳保持に重きをおく、平和な社会を推進する』との理想をうたうオリンピック憲章に照らしてみるとき、北京五輪に『合格』の評価を与えるには、いくつかの留保をつけざるをえない。まず、五輪開催国が最優先すべきである報道・言論の自由と人権が完全に保障されていたかどうか。これは疑わしい」(産経新聞)

 「熱戦が繰り広げられている最中にも、ウイグル族やチベット族などの少数民族への弾圧は止まず、人権や言論の自由に対する抑圧は続いた。伝えられた数々の『偽装』の中でも、開会式での民族融和の演出は異質だった」(読売新聞)

 「人権問題、報道の自由、民主化などの面では異質さが目立った」(日本経済新聞)

 「国家の威信をかけたナショナリズム五輪だった。過剰な警備がまかりとおり、観衆の『中国・加油(がんばれ)』というあまりにも偏った叫びは、排外的な過激ささえ感じさせた」(毎日新聞)

 とにかく、中国政府の五輪開催目的は対外的には国威発揚、国内的にはナショナリズムの徹底だった。中国のような強権国家では市民団体によるデモなどいとも簡単に握りつぶされてしまう。これは北京冬季五輪にも引き継がれるのだろう。

2008年の北京大会の開幕前に長野市内で行われた北京五輪の聖火リレーの会場で国旗を振る中国人留学生たち2008年の北京大会の開幕前に長野市内で行われた北京五輪の聖火リレーの会場で国旗を振る中国人留学生たち=筆者撮影

 その伏線がバッハ会長と中国女子テニスの彭帥選手とのビデオ会話だ。彭帥選手は張高麗元副首相から性的関係を強要されたと告発し、その後行方不明になった。こうした人権問題を先頭に立って火消ししているのがバッハ会長だ。

 安否を含めて彭帥選手が置かれた状況はビデオ会話からはまったく分からなかった。にもかかわらず、バッハ会長は「抑圧されているようには見えない」と強調した。中国政府に忖度したのかは分からない。ただ、バッハ氏の言葉からは抑圧される側の視点は見えない。

五輪を通じた世界平和の実現など夢のまた夢。だとすると、五輪やIOCはなんのために存在するのか。物質主義に染まったバッハ会長はどんな北京冬季五輪の姿を描いているのだろうか。

聖火リレーはナチスの五輪政治利用の産物

 五輪の一つの側面はグローバル規模のメディア・イベントという点だ。世界中からメディアが集まり、そこで繰り広げられる様子を瞬く間に伝える機能を内蔵している。五輪は為政者が自らの意思を世界中に確実に伝えることの出来るイベントが五輪だ。それゆえに、五輪はどうしても政治的にならざるを得ない宿命にある。

 これを巧みに利用したのが、アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツ政権だった。IOCが1931年に、1936年夏季大会の開催地をベルリンに決定した。これは第一次世界大戦の敗戦国ドイツが国際社会へ復帰する一端となった。1933年にナチスが政権を取ると、ベルリン大会の政治利用を積極的に画策するようになった。人種差別主義や軍国主義を後退させ、世界平和の象徴としての五輪と国家としてのドイツを重ね合わせるプロパガンダを拡散したのである。

1936年のベルリン五輪。ヒトラーはこの大会を民族の祭典と称し、政治的宣伝に利用しようとした。開・閉会式の演出をこらし、大がかりになったのもこの大会が最初となった1936年のベルリン五輪。ヒトラーはこの大会を民族の祭典と称し、政治的宣伝に利用しようとした。開・閉会式の演出をこらし、大がかりになったのもこの大会が最初となった

 その一つが、ナチスが考案した聖火リレーである。1930年代のドイツでは、アーリア人選手の肉体美を強調した彫刻などによって、スポーツは「アーリア」の人種的・身体的優越性の道具として使われた。そして、五輪の政治利用の道具として聖火リレーが生まれた。また、ヒトラーはヨーロッパ文明の始祖ギリシャの正統性を引き継ぐのがゲルマン民族だと信じていた。

 そこで、ドイツの優越性と協調性を連想させるために聖火リレーの出発点を古代オリンピックの発祥地であるギリシャのオリンピアに定めた。聖地で灯された松明がブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経て、最後はベルリンの五輪スタジアムで開かれる聖火の点火式で劇的なクライマックスを迎える。聖火台に聖火が灯され、これが五輪開幕の合図となった。

 ただ、

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