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再来襲した「黒船」ニューズ社が日本のマスメデイアを席巻する?〈連載第2回〉

WSJを発行するダウ・ジョーンズの出版ビジネス売上は朝日新聞社の25倍

小田光康 明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所所長

>>連載第1回はこちら

代替勢力としてのグローバル・メディア

 国境を越えてヒト・カネ・モノが自由に行き来するグローバル社会が到来して久しい。国内の報道は世界につながり、世界のニュースは国内につながっている。ある国発のニュースの価値はその国の国力に正比例する。つまり、報道メディアの世界的な影響力は、その国の国力の従属変数に過ぎない。その報道メディア自体が世界的な影響力を持つという訳ではない。これは日本の新聞社やテレビ局など、主に一国内だけで活動する報道メディアには特に当てはまる。

 こうした中、国内の報道メディア業界にもグローバルなニュース報道という代替財の脅威が迫っている。特に、経済分野はグローバル化が著しい傾向にある。既存の市場で互いに他と競合関係にある財を代替財という。消費者の実質所得を一定として、代替財の価格の低下は他の財の需要を減少させることが知られる。

 この典型例がグローバル・メディアのローカライゼーションであろう。この代替財に関する経済原理を用いて、代替勢力からの圧力が存在する場合の国内の報道メディア業界の変化と、市民メディアへの影響について観察していきたい。そこで、ここでは米国経済有力紙『The Wall Street Journal(以下、WSJ)』の国内報道メディア業界への参入を事例に取り上げる。

 WSJの日本版ニュースサイト『WSJ日本版』が2009年末に開設された。『WSJ日本版』は世界各地で日々の取材活動に当たる約2000名の記者や編集者らによって集められた情報の中から、日本の読者に向け翻訳した記事を掲載する(SBI,2009)。これは大手新聞社としては国内初の有料サイトで、月額は約2000円であった。

 『WSJ日本版』の発行元はウォール・ストリート・ジャーナル・ジャパン株式会社(東京都千代田区、北尾吉孝代表取締役)で、資本金4億円のうち米金融メディア大手のダウ・ジョーンズが6割、国内金融大手のSBIホールディングスが4割をそれぞれ出資した。WSTは約140年の歴史を持つダウ・ジョーンズ傘下にある伝統的かつ世界的な影響力を持つ経済新聞社である。このダウ・ジョーンズは2007年、メディア王として知られる豪州のルパート・マードック氏率いるニューズ・コーポレーション(以下、ニューズ)に買収された。

 『WSJ』は1889年創刊で、130年の歴史を持ち、全世界で200万人以上の定期購読者を誇る。日本版発刊当時、この黒船到来で日本の大手報道メディアは色めき立った。WSJといった外国大手報道メディアは日本の報道メディアの代替勢力として大きな脅威に成り得るのだろうか。今回は『WSJ日本版』という代替財の参入が国内報道メディア業界、特に経済報道分野をどう変化させ、それが市民メディアにどのような影響を与えるのか考察していく。

Immersion Imagery/shutterstockImmersion Imagery/shutterstock

国内ニュース需要は飽和状態か否か?

 一般に、ある市場に代替財が参入する場合、供給量が増加するためにその市場の需給バランスが崩れ、既存財の需要量は低下して価格の下落圧力がかる。またこの市場の競争は激化して市場全体の収益性は低下する。こうした中、この市場で既存財の価格のみならずその生産や販売の面にも影響が出る。この場合、既存財の供給者はどのような対策を取り得るのだろうか。

 そこで、代替財としてのWSJ日本版が国内報道メディア業界に参入する場合について、この業界の内部変化について考えていきたい。

 まず、WSJ日本版という代替財の参入で国内報道メディア業界が生産する財価格の上限設定がなされ、業界が持つ収益率向上の機会が失われてしまう。WSJ日本版が収益力の高いグローバル報道メディア業界で生産され、かつ費用対効果が高い場合、この傾向は顕著となる(Porter,1998=1999)。つまり、国内報道メディア業界への圧力の程度はWSJ日本版の脅威の程度が因子となるが、これはグローバルな報道メディア業界の状況に影響を受ける。

 これをアプリオリとして、国内報道メディア業界で報道ニュースの需要が飽和に達していない場合、WSJ日本版の参入がこの業界に大きな影響を与えることなく、需要と供給がうまくバランスが取れるまでそれを吸収していく。この場合、報道メディア業界内の競争の強度に大きな変化はなく、業界の平均収益率の低下も少ない。このため、各報道メディアの経営戦略の大幅な変更はなく、競争力の弱い市民メディアにも大きな影響が生じるとは考えにくい。

 一方、報道ニュースが供給過剰である場合、この業界内の競争は激化して平均収益率の下落圧力がかかる。国内報道メディア業界がこの状態であると市民メディアを含めて各報道メディアは競争戦略の変更をせざるを得なくなる。この選択肢には例えば、WSJ日本版に対して迎撃、協調・提携、差別化、撤退などの戦略を取る。

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WSJ日本版の競争強度を規定する要因―IT革命と経済のグローバル化

 国内報道メディア業界でのWSJ日本版の競争強度を決定する主因は情報通信技術(IT)革命と経済のグローバル化である。20世紀終盤に始まったIT革命はインターネットとパソコンの登場と急速な発展を促し、これが情報通信産業に属する報道メディア業界にグローバルかつ厖大な影響を及ぼした。

 1990年代までグローバル経済・金融情報分野では英国のロイターと米国のダウ・ジョーンズが寡占市場を形成していた。この市場にIT革命が襲った。その先兵が1982年創業のブルームバーグだった。IT技術とビッグデータを駆使し、顧客志向を徹底させた機能を持つ金融情報端末を武器にブルームバーグはグローバル経済・金融情報市場に参入し、瞬く間に席巻した。いまでいうゲーム・チェンジャーだったのである。

 ブルームバーグは間髪を入れずにサプライ・チェーン戦略の一つとして、報道メディア業界にも参入した。1987年に東京オフィスを構え、1990年にニューヨークを基点にニュース部門の立ち上げ、1994年には24時間放送の「ブルームバーグ・テレビジョン」を開始、そして1997年には日本記者クラブの会員となった。ブルームバーグが日本の記者クラブ開放の先鞭を付けたといえる(小田, 2021;ブルームバーグ, 2022)。ここで注視すべきが、この展開速度である。ニュース部門立ち上げから日本の記者クラブ制度に風穴を開けるまでの間、わずか10年あまりであった。

 ブルームバーグはその後、2010年には米国出版大手のマグロウヒルから有力経済誌『ビジネス・ウィーク』を買収した。これは世界140カ国以上4700万以上の購読者を持つ。ニュース部門は2022年現在、約2700人の記者を抱え世界120ヶ国の支局を拠点に取材報道活動をしている。また、ブルームバーグ・テレビジョンは世界70カ国で約4億5千万人の視聴者を擁する。

 ブルームバーグ参入以前、グローバル経済金融情報市場は寡占市場だった。この市場では超過利潤を生み出しやすい構図があり、寡占企業は少ない競合相手のみに照準を当てたゲーム理論的な競争環境になる。このため外部環境の変化に対して必ずしも感応的とはいえず、保守的な経営戦略を採りがちになる。

GIL C/shutterstockGIL C/shutterstock

 ブルームバーグは急成長し、難攻不落といわれたロイターの牙城であるこの市場の業界最大手に上り詰めた。一方、IT対応と顧客志向に乗り遅れたロイターとダウ・ジョーンズの収益性が急速に悪化し、大規模なリストラとM&A(企業の合併・買収)を迫られた。ロイターはかつての大英帝国の情報網を支えた。1851年創業のこの伝統的な報道メディアが2008年、カナダの大手情報サービス業のトムソンに約87億ポンド(約2兆円)で買収された。このトムソンやカナダ国内大手紙、グローブ・アンド・メールはカナダの持ち株会社ウッドブリッジの傘下にある(Thomson Reuters Japan, 2009; Thomson Reuters, 2020; Reuters News Agency,2022; Bloomberg,2022)。

 一方のダウ・ジョーンズは解体というほどの憂き目に遭った。ダウ・ジョーンズもまた1882年にニューヨークで創立された米国の伝統的な報道メディアである。1889年、ニューヨーク証券取引所があるウォール・ストリート街の金融関係者向けに創刊したのが「ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ )」である。また、1896年にはニューヨーク証券取引所の株価指数となる「ダウ・ジョーンズ工業平均株価(ダウ平均株価)」を創設した。

 米国が世界経済の覇権を握る過程でダウ・ジョーンズ、その傘下のWSTや金融誌バロンズの業績が急速に伸長したが、グローバル経済金融情報市場の寡占化が進むにつれて社風が保守化した。そして2007年、報道メディアのM&Aで世界的な地位を築いたニューズに買収され、スクラップ・アンド・ビルドが進んだ。インデックス算出事業の売却というスクラップが決行される一方、ビルトの一つとしてWSJ日本版が創刊されたのである(Dow Jones, 2022)。

 ある市場での競争が激化し、業界全体の平均的な収益率が低下する場合、競合相手のいない未開発なブルーオーシャンを求めて海外市場に進出する企業もある。海外の報道メディア業界の構造変化の影響が、国内報道メディア業界に波及する。WSJ日本版はこの一例といえよう。

WSJ日本版が報道メディア業界に与えたインパクト

 WSJ日本版が国内報道メディア業界に与えるインパクトについてここでは述べていきたい。ここで留意したいのが、経済・金融分野の外資系報道メディアであるWSJ日本版の参入が、その分野に留まらず、市民メディアを含めた国内報道メディア業界全体に影響を及ぼすという点である。「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざにあるように、業界の一部に影響があれば、それが業界内で連鎖反応を起こすのだ。

 ここでまず、簡易な財務比較分析を実施することで、WSJ日本版の国内報道メディア業界への経済的なインパクトについて観察したい。対象とするのはWSJ日本版のグループ親会社である米ニューズ、この傘下でWSJを発行するダウ・ジョーンズ、国内報道メディア業界でダウ・ジョーンズの競合相手となる日本経済新聞社、そしてこの「論座」を運営する朝日新聞社の4社とする。

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