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【反響】障害者と創る未来 という言葉が、うーん、、嫌です。

連載「〈障害者〉と創る未来の景色」への反響

吉岡章子

 「論座」ということばに私が思い浮かべるのは、いろりを囲んで座り、語りあい、論じあう光景です。ゆったりと時間が流れるその場には、相手を「論破する」「言い負かす」ような論じ方は似合いません。互いの言葉に耳を傾け、相手を知ろう、なにがしかのことを学ぼうとする。そんな建設的な議論の場を、論座でもつくっていけたらと考えています。
 そのための試みとして、論座で公開した論考に対する反響のうち、編集部員が心を動かされた文章や優れた論を、ご本人の了解を得たうえでご紹介していきます。
 こちらは、三谷雅純さんの連載「〈障害者〉と創る未来の景色」やそれを紹介する私のコラムに対して、吉岡章子さんが寄せてくださったものです。吉岡さんと、三谷さんや私のやりとりもあわせてご紹介しています。
 読者のみなさまも、論の座に座り、論じあいませんか。info-ronza@asahi.com にメールでいただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。

「論座」編集長 松下秀雄

「患者さんの吉岡章子さん」として生きてきて。

 『論座』の一推し'〈障害者〉と創る未来の景色'の記事での募集を拝読し、送らせていただいております。

 わたしは、障害者というくくりに一応なる人間です。しかし、障害者と創る未来 という言葉が、うーん、、嫌です。

 だって、わたしの肩書き、『障害者』じゃないもん。

じゃがいも収穫(筆者提供)
 障害を抱えて、『障害者』になり、それをまろやかに『当事者』と言われ、このレッテルにどれだけくるしんできたか。

 わたしは現在35歳、農業を生業としています。
 18のとき、統合失調症になり、患者、そして'精神障害者'になりました。
 自分は自分であるはずなのに、『患者さんの吉岡章子さん』として生きてきました。

 友達とも、社会とも、支えてくれるスタッフとも、そこにはいつもそのことによる'垣根'がありました。

 本音でぶつかれない という垣根です。
 夢を夢で終わらせられてしまう という垣根です。

 何かやりたいと言えば、

 『まずは生活のリズムを整えよう。』

 自分で自分の人生を選べず、挑戦を後押しするでなく、心配される。
 …具合が悪いのでは?と。

肩書は「農家」……その肩書いる?

 けれど、わたしは農家になりました。親は会社員。農業とは無縁です。

 わたしをわたしとして、患者でもなく、病気の吉岡さんでもなく、ただの吉岡章子さんとして認めてくれた農家さんに救われ、憧れ、自ら繋がり、気持ちをぶつけ、農業委員会を通して農家になりました。

 わたしの今の肩書きは『農家』

 けれど、思うこと。
 その肩書きいる?

 わたしはわたし。あなたはあなた。
 世界でたったひとりの人間、そこに必要なのは肩書きじゃない。
 自分が自分である それだけです。

草刈り中〜(筆者提供)
ジャーンプッ(筆者提供)

 さまざまな社会課題に直面してる当事者の論を紹介したい

 素晴らしいと思います。でも、本当にその論を紹介することが未来を創ることに繋がるのでしょうか。

 それが考える、感じるきっかけになる

 でもね、そこからひとりひとりが自分の言葉や行動に責任を持ち、自分を、自分の可能性を信じ、自分の人生の中で'動く'
 これがなければ、『すごいね』『頑張ってるね』止まりなんじゃないかなって。

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怖いけれど、素晴らしい。どうか、、、生きてね。

あきちゃんのやさい(筆者提供)
 この様な記事を読んで、考えて、これをきっかけに、じゃあ自分には何が出来るのか…
 そう考えて、実際に動くって、語るって、前に出るって、言動に責任持つって怖いこと。
 でも、もっと怖いのは、自分を信じられず、自分なんてと自分も自分の可能性も否定して生きること。

 怖いんですよ。生きるって。
 でも、素晴らしいんですよ、生きるって。

 生まれてこれない命だって、生き続けられない命だってある中で、ただ生きている。奇跡じゃん。

 だからこそ、この世の中に、『吉岡章子』として訴えたい。

 『あなたが生きている、それだけで価値がある』

 どうか、、、生きてね。
 レッテルや肩書き、まわりの声に惑わされず、生きてね。

 これがわたしの『論』です。

わたしも怖いのです。


 【三谷雅純さんの応答】

 他の方も加わることを期待して、論の輪に入れていただきます。

 吉岡章子さんは「動くって、語るって、前に出るって、責任持つって怖いこと」と書いておられます。実のところ、わたしも怖いのです。怖くてしかたがありません。何が怖いかというと、自分の思いを文章に書くことです。吉岡章子さんにこの応答を書いている今も怖いのです。

 皆さんに分かっていただこうとして、毎回、書くのですが、実のところなかなか分かってはくれません。たいていは、本心を隠した当たり障りのない褒め言葉であったり、そうでなければ誤解に基づいた反論であったりします。それでも、わたしが書き続けているのは、中にはわたしの文章の意味を理解した上で、その人なりの別の見方を示してくれることがあるからです。そのような応答はわたしに新しい世界の見方を教えてくれます。文章のうまい・へたは関係ありません。

 人は他人のこころが分かりません。なぜかというと人にテレパシーがないからです。他人のこころが分からないということは、人は本質的に孤独だということです。一番身近なはずの家族でさえ、その感じ方や考え方は、本当は分からないのではないでしょうか。

 人は少数者を嫌います。それは少数者の感覚が理解しにくいからだと思います。何を考えているのか分からないと多数者は言います。反対に、人は多数者のものの見方に触れて心地よく感じます。多数者が同じ考えだと思えれば安心していられるからだと思います。

 それでも人は人を求めます。人の考えが分からないにも関わらず、人は群れようとします。少数者も人を求めます。自閉スペクトラム症の方のように孤独であるように見える人も、こころの奥深くでは人を求めています。

 先程わたしは「わたしの文章を理解した上で、その人なりの別の見方を示してくれる」と書きました。また「新しい世界の見方を教えてくれ」るとも書きました。考えてみれば、このことも、わたしが良いように誤解しただけかもしれません。しかし、新しい考え方に気が付いたのは事実です。枯れたような幹から芽を出すということも、あるのだと信じています。

「その肩書いる?」に、どきっとして。


 【松下秀雄の応答】

 「その肩書いる?」という言葉に、どきっとしました。

 私は「朝日新聞の松下秀雄」や「論座の松下秀雄」ではなく、ただの「松下秀雄」として、自分の言葉や行動に責任を持ち、自分と自分の可能性を信じ、動くことができているのか? そう問われているように感じたからです。

 立場や肩書があるから、できることもあります。だったら、その立場や肩書をめいっぱい活用して、やるべきことをやればいい。本気でそう思っています。

 でも、ほんとうにそれだけなのか? 立場や肩書に守られていない自分に自信がなく、裸で投げ出されるかのように頼りなく感じられて、怖がっていないか? ……さらに問われると、違うと言い切ることのできない自分もいます。

 だから、ひょっとしたら吉岡さんの意図とは違うかもしれないけれど、私は私なりに、次のくだりに共感したのです。


 怖いんですよ。生きるって。
 でも、素晴らしいんですよ、生きるって。


 吉岡さんからいただいた写真を拝見して、土に触れながら、確かに生きている姿をみたような気がしました。


 せっかく生きているのだから、素晴らしいと思える生をおくりたい。そう思ったのです。

伝える難しさと、幸せと。


 【吉岡さんから三谷さんへの応答】

 怖いですよね。わたしも実はYouTubeをやっていて、精神科で生きてきた自分の意見や考え、畑で感じたことなど、率直に語っています。
 他にもブログなどで語っていますが、発する側の意図とは違う受け取り方をどうしてもされてしまうのが常かなと感じています。
 『人は人の心がわからない。本質的には孤独。けれど人を求める。』
 まさにその通りだと思います。
 100人いれば100通りの心があり、いや、心っていろんな角度を持ってるからもっとかな。
 それをわかってもらえるように伝えること、すごく難しいですよね。そして、その反応に怯えてしまう。数字にも。
 でも、伝えられるって幸せなこと、そんなふうにも感じます。
 そして、勇気をもっている自分が少し嬉しい。
 わかってくれなくてもわかってくれようとする人が1人でもいたら、そんなに嬉しいことないですよね。その時、わたしは1人じゃないなぁって思ったりします。
 この度はありがとうございます!

わたしも肩書に守られているのかも。


 【吉岡さんから松下への応答】

 肩書きってそうはいっても大切ですよね。
 自分を守ってくれる盾にも矛にもにもなる。それに、自分に自信を与えてくれるものでもある。
資格もそう。
 かくいうわたしも、正直、障害者という肩書きに、患者という肩書きに、あきちゃんのやさい、あきちゃんという肩書きに守られているのかもしれません。
 元ひきこもり というレッテルに苦しんできた一方で、そのラベルをブランディングとして使ってしまう自分がいるのも事実です。そして、あの文章は、そんな自分にもしかしたら、一番問いたかったのかもしれない、あなたは『吉岡章子のままで素晴らしいんじゃないですか?』と。

 心も人の生きる道も答えがないから、この答えのない旅路をいろーんな人と腰を据えて論ずる'論座'をこれからも応援させてください!

 それでは、またの御連絡たのしみにお待ちしております!

「その人なりの見方」も良いのです。


 【三谷さんから吉岡さんへの再応答】

 ある編集者に教えてもらったことですが、読者は、普通、著者が意図したこととは全く違う解釈をしながら読み進めるものだそうです。それは、多分、その文章を読むまでの人生経験や読む感覚が一人ひとり違うからだと思います。しかし、読者によって異なる解釈は、うっかり著者が気付かなかったその文章の価値であったりしますし、場合によっては文章の評価が著者には思いもよらない展開を辿ったりします。ある小説家(誰だったか、お名前を忘れてしまいました)は、そのことを指して「作品が私の手を離れて勝手に主張しはじめた」と喜んでいました。

 わたしは「何が怖いかというと、自分の思いを文章に書くことです」と書きました。誤解されて「反論」に打ちのめされてしまうことが、現実にあります。でも、「わたしの文章の意味を理解した上で、その人なりの別の見方を示してくれることがある」とも書きました。実は「その人なりの別の見方」も、今度はわたしの側の誤解に基づくものかもしれないけれど、でも良いのです。それは価値のある「著者には思いもよらない展開」だからです。

 吉岡章子さんは今の肩書きを「農家」だとお書きです。農家は作物を育てて売る仕事です。野菜の写真(「あきちゃんのやさい」)も載っています。土が育てる野菜に、吉岡さんが手をかける。素敵なお仕事だと思います。

 わたしは脳塞栓(そくせん)症(=脳の血管に血栓が詰まってしまう病気)になるまでは、アフリカのカメルーンやコンゴ共和国という国の熱帯林で科学調査をしていました。また、なってからも東南アジアのインドネシアで調査をしたことがあります。

 農家の仕事と熱帯林の調査は違います。しかし、自然相手の仕事という点では同じです。わたしは右半身がマヒしてしまいましたが、今でもチャンスがあれば迷わずにアフリカや東南アジア、そして声さえ掛かれば中南米にも出かけていくと思います。

 わたしは何となく、吉岡さんが「農家」に惹かれた理由が分かるような気がします――もちろん、これも誤解に基づく「わたしなりの解釈」かもしれませんが。

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三谷雅純さん。〈障害者〉になってもフィールドに出るとおもわず笑顔になる。インドネシアのスマトラ島南岸で撮影(三谷さん提供)