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遊びを奪われ、地域社会の中で“異物”扱いされる子どもたち

「迷惑」をキーワードに議論なく広がるボール遊びへの「警告」

西郷南海子 教育学者

 子どもの「マイノリティー化」とは

 前回の記事【サッカーをしたくてもできない子どもたち~「ボール遊びがうるさい」が奪う「権利」】で筆者は、子どもたちの「公園への囲い込み」から「追い出し」が進んでいることを指摘した。しかし、まだ考察が深まっていない点があった。それは、目に見えて子どもの数が減っているのに、なぜ子どもに対する社会の目線が厳しくなっている(ように感じる)のかという疑問である。

 公園での遊び方に限らず、公共交通機関へのベビーカーの乗車や、妊婦マークの着用を巡る《問題》もある。おおざっぱな言い方になるが、数十年前は子どもの数は、今よりも2倍、3倍と多かった。であれば、世の中は子どもたちで、もっと騒がしかったはずである。

 これに対する筆者の仮説は、「子どもの数が減ったため、子どもの存在自体がマイノリティーとなり、地域社会の中で《異物化》している」ということである。下に、筆者が住む京都市の総人口に占める子どもの割合を示した(京都市総合企画局情報化推進室統計解析担当「京都のこどもの数」を元に筆者が作成)。

 子どもが人口の3割を占めていた時代と、1割を切ろうとしている今日。1割といえば、性的少数者(LGBTQs)が人口に占める割合として、各種データで公表されている数字に近い。LGBTQsの人々が自らの権利を求めて活動せざるをえないように、「子ども」という存在も、もはや社会における「マイノリティー」といえるのかもしれない。

 ここで、法的に十分に守られていないLGBTQsの人々と、前提としては法的に保護されている子どもを類比することは適切ではないという指摘を受けるかもしれない。しかし、社会における居場所の小ささを示す数字としては近いものがあるということを、わたしたちはどのように受け止めるべきなのだろうか。

あらゆる「球技」を禁じる京都市の基準

 筆者の子どもは今でこそ小学生と中学生だが、まだ乳幼児だった頃、複数のママ友と話したことがある。それは「泣き声を児相(児童相談所)に通報されたらどうしよう」ということだった。虐待通報窓口である「189」のポスターが町中に増える一方で、育児を助けてくれる具体的な人はいない。そのような中で、誰に通報されるかわからないという猜疑心に近い感情を抱いていた。

 そのような日々の連続でも、子どもたちは無事大きくなり、今度は友達同士で外遊びするようになった。親にとっては、育児史上初めて、少し手の休まる瞬間の到来である。ところがそこにのしかかってきたのが、公園でのボール遊び禁止であった。近年、「球技禁止」の看板が増え始めて違和感はあったが、今回その根拠を調べてみると、驚くべきことが明らかになった。

京都市建設局所管の都市公園における球技に係る取扱基準(2013年4月1日施行)

(前略)

1 都市公園内においては, 次の場合を除き, 球技を認めない。

(1) 幼児や小学生が少人数でボール遊びを行う場合。ただし, バットの使用, チームで行う野球やサッカー等は認めない。
(2)グラウンドゴルフやペタンク等の球を転がす球技を小学生の利用が少ない
時間(平日の午後2時頃まで)に行う場合
(3)その他、公園管理者が公園の利用及び管理に支障がないと認める場合

2 都市公園内の広場について, おおむね次の用件を満たす場所を「球技広場」と定め, 球技広場においては, 幼児や小学生によるバットの使用やチームで行う野球やサッカー等を行うことも認める。

(球技広場の要件……以下省略)

 都市公園とは、厳密には20近い区分があるが、住宅地にある「街区公園」すなわちふつうの公園も含まれる。つまり、京都市では球技広場を除く、あらゆる公園での球技を禁止しているのである。取扱基準上では「チームで行う野球やサッカー等」以外のボール遊びがあるとしても、それが「等」に含まれないとは限らない(矛盾)。むしろ、どのような遊びなら可能なのか、判別が難しい。

 幼児がボール転がしをするくらいのことは可能だが、「球技」に関しては包括的に禁止していると読むことができる。現在は、この取扱基準が厳しく運用されているわけではないので、子どもたちは「違反」しながらボール遊びをしているが、もしこれが厳密に適用されたらどうなるだろうか。

 ここで筆者の頭に浮かぶのは、

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