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「子どもの意見表明権」が学校と地域社会を変え、民主主義をよみがえらせる

考え、伝え、合意し、実現する――この経験の積み重ねが有権者をつくる

西郷南海子 教育学者

 「学校改革」は子どもの意見を踏まえているか

 近年、学校改革に関する書籍が相次いで出版されている。その主だったものは「カリスマ校長」による、ある意味で「上からの」改革であり、多くの読者は憧れを抱くのと同時に、そのような人物がいない学校ではどうすればよいのかという疑問をもつに違いない。またそのような人物に頼らざるをえない状況を、どのように理解するべきかという問題もついて回る。

 筆者が研究しているアメリカの教育学者ジョン・デューイ(1859-1952)は、ありとあらゆる人々が民主主義社会の担い手になることを訴えた。それはいったいどのようなことを指すのだろう。デューイは、一部のリーダーが統治を行い、民衆から思考や行動を奪うことに反対した。またそのような状態に安住する民衆のあり方にも反対した。

 そうではなく、あらゆる人々が能力を《引き出し合う行為》こそが民主主義であると定義したのである。つまり、民主主義と教育は切っても切れない関係にある(デューイ『民主主義と教育』1916)。この考え方は、今日のわたしたちにも大きなインスピレーションを与える。民主主義と教育を表裏一体にとらえる視点から、筆者は地域の子どもたちに聞き取りなどを行い、記事を書いてきた(論座「サッカーをしたくてもできない子どもたち」)。

 先日は、国連の「子どもの権利条約」にも定められている「子どもの意見表明権」をテーマとする企画を、我が子が在籍する小学校PTA主催で行った。「子どもの権利条約」は、まだまだ日本では浸透が不十分な条約なので、ここに一部を引用する。

子どもの権利条約 第12条 〔国際教育法研究会訳〕

1. 締約国は、自己の見解をまとめる力のある子どもに対して、その子どもに影響を与えるすベての事柄について自由に自己の見解を表明する権利を保障する。その際、子どもの見解が、その年齢およひび成熟に従い、正当に重視される。

2. この目的のため、子どもは、とくに、国内法の手続規則と一致する方法で、自己に影響を与えるいかなる司法的およひび行政的手続においても、直接にまたは代理人もしくは適当な団体を通しじて聴聞される機会を与えられる。

 まず、注目したいのは、子どもの意見表明権を保障する主体は「締約国」であるということである。いわゆる「ふわっと」した社会的合意として「子どもの意見は大事だよね」ということではなく、「子どもに影響するすべての事柄」に関する意見について法的、行政的に尊重されるということである。

 果たして、わたしたち保護者、そして大人は子どもの意見を、このようなものとして扱ってきただろうか。むしろ子どもの意見は「子どもの意見」に過ぎないものとして切り捨ててきたのではないか。それは、子どもたちの家庭生活だけでなく、学校生活においてでもある。

 子どもたちの不登校は、コロナ禍を経て、過去最多に達している。小・中学校の不登校児童生徒数は約24万5千人を超えた(令和3年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について[通知]令和4年10月27日)。「24万人」と聞いて、その人数をイメージできるだろうか。

 アイスランドの人口が約33万人、バルバドスが約29万人であることを踏まえると、小さいながらも一国の人口として十分に成り立つほどの人数が、不登校となっているのである。もっとミクロな視点で見るならば、中学ではどのクラスにも不登校の子どもが1人はいるという状態である。

 この子どもたちが不登校という形で訴えていることは、何だろうか。何らかの問題がどこかに生じていて、学校には行かないという選択を、積極的であれ消極的であれ、しているのである。もちろん、価値観が多様化している時代なので、不登校という選択がより身近になっていることは間違いない。ただし、それは学校が抱える問題を看過してよいということではない。

 「子どもの意見表明権」の話に戻るが、学校について最も詳しい人物は、実は子どもである。学校教育というある種、巨大な装置の中で、どのような体験がなされているのか、それについて当事者として語れるのは子どもである。このことは、もっと重視されてもよいはずである。どこの学校も「学校評価アンケート」の集計や分析、公開に忙しい。ただ、すでに用意された項目に対してマルをつけることは「子どもの意見表明権」とは似て非なることである。なぜなら、子ども一人ひとりの個別性、主体性は抜き去られてしまうからである。では、どのような取り組みが可能なのか、次に述べたい。

子どもたちの「声」を探り当てるためには

 これまで筆者は、公園や広場のそばで駄菓子を1個10円で売りながら(不定期開催)、地域の子どもたちとの関係構築に励んできた。媒介物なしには、人と人はつながることができないし、今では懐かしい廉価な駄菓子を媒介とすることで、我が子と親しい子どもたちだけでなく、その外にリーチしたいと考えた。実際にそれをすることで筆者のことを覚えてくれた子どもは多い。しかし、子どもたちが話してくれることの内容は、わたしとの一対一の関係を超えて、教育委員会や行政への働きかけを必要とすることが多く、力不足を感じていた。

アンティークの裁縫箱に駄菓子を詰めて=2022年5月、京都市左京区アンティークの裁縫箱に駄菓子を詰めて=2022年5月、京都市左京区

 そこで今回、PTA本部として開催したのが「(校名)・キッズ・トーク」である。イベント名は、最近東京ディズニーシーで人気を博している「タートル・トーク」を拝借した。それは動的なアトラクションではなく、純粋なトーク自体をエンタメ化した施設である。軽妙なトークから生まれる観客との一体感がSNSで繰り返しシェアされているのを(子ども経由で)閲覧した。

 「キッズ・トーク」当日は、20名ほどの子どもが1年生から6年生まで参加してくれた。「タートル・トーク」とは違って、エンタメ系イベントではないので、集客が心配だったが杞憂であった。子どもたちは入り口で手指を消毒し、好きな飲み物を選んで、席に着いた。

受付も子どもたちが運営=2023年3月18日、京都市左京区受付も子どもたちが運営=2023年3月18日、京都市左京区

 会を始めるにあたっては、「フィンランドの小学生が作った10のルール」を紹介した。やや長いのだが、以下に転載する。

1. 他人の発言をさえぎらない
2. 話すときは、だらだらとしゃべらない
3. 話すときに、怒ったり泣いたりしない
4. わからないことがあったら、すぐに質問する
5. 話を聞くときは、話している人の目を見る
6. 話を聞くときは、他のことをしない
7. 最後まで、きちんと話を聞く
8. 議論が台無しになるようなことを言わない
9. どのような意見であっても、間違いと決めつけない
10. 議論が終わったら、議論の内容の話はしない

(北川達夫『図解 フィンランド・メソッド入門』経済界, 2005)

 これは10項目もあるのだが、読んでいくと、それぞれの項目が相互関係にあることがわかる。たとえば、「1. 他人の発言をさえぎらない」「2. 話すときは、だらだらとしゃべらない」はセットである。他人の発言は最後までなされるべきだが、それは「だらだら」としたものであってはならない(!)。聞いてくれている人の時間も尊重する必要がある。つまり、しゃべりたいがために挙手をし、いつまでもしゃべる日本の会議スタイルはここではNGである。

 また「8. 議論が台無しになるようなことを言わない」は、今でいう「それってあなたの感想ですよね」の禁止である。個人的な感想だと話を片付けられてしまったら、その子は今後の発言に不安を覚えるだろう。このように長い項目でも、その必要性を一つひとつ説明することで、子どもたちの理解が得られたのを、その場の雰囲気として感じることができた。つまり「心理的安全性」が、万全ではないにしろ確保されたということである。

 子どもの「声」を聴くにあたって、これらの事項は特に重要である。なぜなら、子どもたちは学校で、いわゆる「アクティブラーニング」を実践しているが、教科の枠を超えて自分の困りごとや他者の困りごとに直面し、解決を訴えるという機会におそらく乏しいからである。本稿冒頭ではデューイの考え方を紹介したが、一人ひとりが思考や能力を《引き出し合う》には、それを行いつつ人間関係の構築をしていくという同時進行のダイナミクスがある。

 したがって、トークの第1ラウンドは同学年グループとし、第2ラウンドはクジ引きによる学年混合グループで行った。これは、素朴な提案をする低学年の子どもたちに対して、高学年が「4. わからないことがあったら、すぐに質問する」を実践できればよいと思ったからである。質問という技法は、魔法のような性質をもっている。よい質問の仕方をすれば、話が深まるし、そのようにお互いが《成長》する瞬間を体験してもらいたいという意図があった。

子どもたちの発言メモ。「男女平等」の大きな四文字がひときわ目を引く子どもたちの発言メモ。「男女平等」の大きな四文字がひときわ目を引く

 この写真は、4年生グループの要望の一部である。「学校にジュースを持って行きたい」は他のグループからも提案された「小学生らしい」ものであるが、他にも「男女平等」という文字にはドキリとさせられた。「これってどんなこと?」と聞いてみたところ、クラスで男子グループと女子グループが仲良くできず、その弊害があちこちで起きているとのことだった。小学4年生という異性を意識し始める時期ならではの課題であろう。その横にある「ろんぱやめてほしい」も、この文字の奥にあるこの子どもの体験に思いをはせざるをえない。次は3年生のまとめの一部である。

画用紙にびっしりと書き込まれた意見画用紙にびっしりと書き込まれた子どもたちの意見

提案→改善の《成功体験》の積み重ねを

 今回子どもたちと話してわかったのは、学校には、保護者からは見えにくい多種多様なルールや制約があり、子どもたちはその中をかいくぐるようにして生きているということだ。一般的には「学校の息苦しさ」と呼ばれるものだが、今回のトークによって、その詳細が部分的ではあるが、明らかになった。たとえば、ボール遊びに関連するものだけでも、次のような要望が挙げられた。

休み時間に運動場でボールを「蹴りたい」(他方、投げる遊びはOK)

休み時間に体育館でも遊びたい(授業以外では立ち入り禁止)

雨の日に体育館でも遊びたい(エネルギーの有り余った子が廊下で走る)

ボールを増やしてほしい(各クラスに2個しかないので取り合い)

サッカー大会をしてほしい(京都市の公園では集団球技は基本的に禁止)

 子どもたちの体を動かしたくてたまらない衝動が伝わってくる。なぜこうした校内ルールになっているのかは、理由があるはずだが、それが共有されていないために、子どもたちの不満が募っている。これは学校が、子どもを説明責任の対象だとは十分に認識していないということだろう。こういうところにこそ、保護者やPTAが入って、橋渡しをすべきだ。もちろん将来的には子どもたちが自分たちで活動していくことが理想だが、小さな頃から「意見を出す→学校(市)と話し合う→改善」といった《成功体験》の積み重ねをしていくことが肝心だ。

 あと、印象的だったのが、子どもたちから「仮眠」の時間を求める意見が出たことだ(写真下部「ねんねの時間」)。「昼寝の授業」と表現した子どももいる。仮眠も本業の一部であるという考えは、シリコンバレーの先端企業のようだが、子どもたちの負担感の一端が垣間見える。現在の子どもたちは「逆ゆとり世代」で、教科書も大型化し、ページ数も増え、学習内容が「重量化」している世代である。子どもたちの疲労の度合いも大きいはずである。筆者の子どもも5時間目にしばしば寝ていると、担任から伝えられたことがある(幸いにも「◯◯くん、疲れてはるんやなぁ」と見守ってくれたそうだが)。

 子どもたちは意外にも、学校での事柄を家庭で話さない。サラリーマンが会社から家庭に帰ってきて、会社であった面倒くさいことを話さないのと同じである。「今日学校どうだった?」と聞いても「ふつう」と会話から逃げられてしまうのは、全国の家庭での共通の風景だろう。だからこそ、子どもが意見を出し合う場を意識的に作り、活用していくことが今後の学校改革の地道な処方箋と考える。

「投票しても変わらない」に陥らないために

 この4月は全国一斉の地方議会選挙が行われる。今までどおりの低投票率が予想されるが、なぜ選挙に行く有権者が50%に満たない「少数者」になってしまったのだろうか。それは「自分が投票しても変わらない」「自分との関連が思い浮かばない」と有権者が感じているからだろうと筆者は想像する。

 それは、先述した要望実現の《成功体験》に乏しいからではないか。自分の考えを練り、表現を工夫して他者に伝え、合意を作り、要望を達成する。こうした経験を積み重ねていくことこそが、有権者としての素地となるのは間違いない。

 もしも学校の中でそうした経験をすることが難しいのであれば、今回のようにPTAや保護者の集まりで活動を始めることができる。規模は小さくとも、まずは一人ひとりの子どもたちに「あなたの意見は聴かれるに値する」ということを体感してもらうことが必要である。こうした経験を積み重ねた子どもたちが18歳を迎えたときに、地域社会の光景が変わってくるのではないか。子どもが18歳を迎えるのはあっという間である。