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「白熱教室」を可能にするのは学生か教員か

水田愼一

水田愼一 水田愼一(三菱総合研究所海外事業研究センターシニア政策アナリスト)

 ハーバード大学サンデル教授の「白熱教室」について、ある私大教授と話をしたら、「日本の大学の学部教育であの手の授業は難しいだろう」という反応が返ってきた。日本でも、修士課程・博士課程という大学院教育では、対話型の授業は一般化していて、学生もそこそこ発言する。しかし、4年制の学部での授業は、多くの場合、教員が一方的に講義を行うだけだ。この私大教授も、授業は講義だけで、出欠も取らず、成績は期末試験で決めるということだった。

 筆者自身、学部は日本の大学を出ているが、対話型の授業を受けた記憶はない。そもそもほとんど授業に出ていなかったので、胸を張って「そのような授業はなかった」と言える立場にもないのだが・・・。言い訳になるが、白熱といった内容からはほど遠い授業ばかりで、教室に向かう気にならなかったとでも言おうか。授業で講義される内容は教科書を読めばそれで足りるし、授業に出なくても試験でいい点さえ取れば単位はもらえる。これでは授業に出る気がわかないし、ましてや、自身が白熱するほど意気込んで授業に出るなどということはありえなかった。

 とはいえ、私を含め、学部の学生達が白熱して意見を交わす場がなかったかといえばそんなことは無い。部室で、喫茶店で、本や映画や音楽やスポーツなど、自分たちが関心を持つことについて学生たちは熱い議論を戦わせる。学問にしても、少人数が参加するゼミでは学生たちが積極的に発言してお互いの意見を戦わせていたし、筆者が参加していた国家公務員試験の勉強会での議論もとても活発だった。筆者は最近まで日本の大学の博士課程に在籍していたが、同じキャンパスで見かける学生達が熱く議論する姿に出会ったことは少なくない。今も昔も、日本の学生も、米国の学生に負けるとも劣らないくらい議論好きなのだ。

 ではなぜ、日本の大学では「白熱教室は難しい」と言われるのだろうか。一つの理由としては、よく言われることだが、米国と日本との文化的な違い、教育環境の違いがあろう。米国では、大学以前の初等・中等教育の授業でも、自分から積極的に発言することが求められる。公の場でうまく話ができるとその人は高く評価される。次に評価されるのは的外れでも何か発言する人だ。沈黙は最も評価されない。

 筆者が米国の大学院にいるとき、良くちんぷんかんぷんな発言をする生徒に出くわした。日本人だったら、理解せずに的外れなことを言うくらいなら黙っていた方がましだと考える。もちろん語学的なハンディキャップもあるが、公で発言するということに対する捉え方の違いが、日本人の学生を無口にする。

 でも、米国では、どんな変なことでも言わないよりはましなのだ。そして、発言したかどうかがその人の評価を左右する。授業での発言の有無がその人の成績に影響を与える。しかし、日本の中学校や高校の授業では、「正解」がある問題について先生から指されて皆の前で発言することは少なからずあると思うが、自分から手をあげて質問したり、自由な意見を述べたりして、先生と生徒が議論することはほとんど見かけない。そういう文化・環境がそのまま大学の授業にも引き継がれる。

 しかし、サンデル教授の授業は日本でも「白熱」したし、授業外では熱い議論を戦わせる学生は沢山いるのだから、仮に難しいとしても日本でも「白熱教室」は可能なはずだ。その方法の一つは、授業の評価に「発言点」を加えることだと思う。

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